連載小説
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臆病
 兄の命が尽きた頃、弟たちはどうなっていただろうか? 兄の願い通り、獰猛な神狼から逃げおおせる事ができたのだろうか?

  残念ながら、そうはならなかった。特に臆病な性格をしていた一番下の弟は、兄が目の前で喰われたという事実に動揺し、上手く逃げる事ができなかったのだ。



  「おい、しっかりしろ! おいっ!」

  「あぁ……いやだ……そんな……」



  中兄の言葉も弟の耳には届いていないようだった。

  うっかり振り返った彼は目にしてしまったのだ。神狼の腹を押す動きが次第に弱まり、徐々に腹の膨らみが萎んでいくその様子を。その中で何が起こっていたのか、それを想像するだけで彼を恐怖のどん底に陥れるには充分だった。



  「気を確かに持てよ! 兄貴の死を無駄にする気か!?」

  「僕だって分かっているよ。分かってはいるけれど、力が入らないんだ。」



  巨躯を持つ神狼にとって、人間一人では腹は膨れないらしい。次の獲物として、あっと言う間に二人との距離を縮めていく。狙いは一番下の弟のほうだった。



  「嫌だ、食べないでくれ。あ……あ…………あああっ!」



  そして神狼何人もの人間を喰らってきた大きな口を開くと、あっという間に弟を銜え、食べてしまうのだった。そしてまた、無慈悲に牙が弟の体へと突き刺さり、獲物に激痛を与える。



  「ぐわあああ! 痛いいいい! 痛いよおおおお!」



  腹へと突き刺さったその感覚に、弟は絶叫を上げた。

  神狼は餌から流れ出る生暖かい血液を、実に美味そうに味わう。そしてその味を楽しむかのように口内の人間を嘗め回していく。

  神狼にとって自分は、パンや果物と変わらないただの餌なのだ。その事実が、より一層恐怖を増幅させていった。

  やがて出血が収まってくると、神狼はいよいよ上を向き、犠牲者を飲み込もうとする。



  「い、嫌だ、嫌だ。胃袋になんて入りたくないよぉ……殺さないで、死にたくないよぉ……」



  当然神狼に人間の言葉など分かるはずもなく、命乞いは受け入れられなかった。もっとも、分かっていたとしても逃がすとは思えないが。

  必死に舌につかまろうとするが、それは無駄なあがきだった。唾液で滑りやすくなっていた舌は願っていたような役割は果たしてくれず、そのまま体は喉奥へと進んでいく。



  「誰か助けてええええ!」



  ただの餌である人間に救いの手は差し伸べられず、弟は二度と上がる事のない一方通行の道を、ただただ恐怖に震えながら進んでいくのだった。





  いよいよ胃袋へと収まってしまった弟は、そこに居るはずの兄を探す。



  「に、兄さん? 生きているかい?」



  返事は無い。辺りを見渡すと、そこには異臭を放つ不気味な半固体の肉のようなものだけがあった。言うまでもなく、先に喰われていた兄の成れの果てである。



  「あ……あ…………あぁ…………!」



  弟はガタガタと震えて涙を流す。兄を失った悲しみ、そして間もなく自分もこれと同じグロテスクな姿になってしまうという衝撃、それに至るまでに味わなくてはならないであろう苦痛への恐怖。様々な感情がごちゃ混ぜになり、まともに声を出すことすらもできなくなっていた。

  胃袋の入口は固く閉ざされており、どうやっても開きそうにない。



  「もう二度と……出られない……」



  自分はこの場で命を落とす。当たり前に来ると思っていた明日はやって来ない。それどころか、数十分後にはもうこの世には居られなくなっている。そんな避けようのない未来に絶望する。

  胃袋はというと早くも再びの獲物の到来を感知したようで、胃壁はゆったりとした動きで胃液を分泌し始めていた。



  「や、止めてよ……それだけは! 命だけは!」



  狭い胃袋の中ではどこにも逃げ場は無い。瞬く間に全身が胃液に包まれ、身に付けていた服が、そして皮膚までもが溶け始める。



  「ぐああああ! 痛い痛い痛いいいいい!」



  想像を絶する激痛に、泣き叫びながらのたうち回る。そんな人間に情けをかける事もなく、胃液はどんどん獲物の肉を溶かしていく。

  消化の早い場所では骨が露出し、その骨すらも跡形もなく溶けようとしていた。目にも胃液が入ったようで、何も見えなくなった。



  「体が溶けるうううううううう! うわああああああああ!」



  地獄のような痛みと無くなっていく体に自分が死にゆく事を実感し、それにひどく恐怖する。しかしその恐怖すらも、全身を胃液で溶かされる痛みにかき消されようとしていた。

  溶かされた肉は、先に消化されていた兄の肉と混じり合い、悍ましい肉のジュースと化していく。



  「ぎゃああああああああ! あ、あ、ぐわああああああああ!」



  体の大半が原型を留めなくなっても、丈夫な頭蓋骨に護られた脳が溶かされるその瞬間まで、苦痛から解放される事はない。永遠にも思える痛みを味わい続けなくてはならなかった。



  「あ…………ぁ…………」



  とうとうその時は来た。獲物が体のほとんどを溶かし尽され、命を留めておくことができなくなったのだ。最期に言葉にならないうめき声を上げると、魂が肉体から引き剥がされるような感覚を覚え、そしてもう何も分からなくなった。

  壮絶な苦痛の末にまた一人、被食という自然の摂理によって人間が命を落としたのだ。



  後には彼が想像したように、最初にあったものと同じドロドロの肉塊だけが残されていた。
16/06/01 22:58更新 / 天地水
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