連載小説
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覚悟
 その時、神狼の方へ一歩前に出る者がいた。三兄弟の一番上。常に三人の先頭に立ち、的確に状況を見極め、どんな困難な状況からでも成功へと導いてきた長男だった。



  「腹が減っているのだろう? この私を食べろ。その代わり、弟たちを逃がしてくれ。この通りお願いだ、頼む。」



  神狼といえども獣には変わらない。言葉が通じるとは考えにくかったが、この全滅するのを黙って静視する気にはなれなかった。

  例え相手が理性を持たない野獣であったとしても、自分が目の前に躍り出れば、より狙いやすくなるだろう。そうすれば、2人が逃げるだけの時間を稼ぐことができるかも知れない。

  可愛い弟たちをむざむざ死なせる訳にはいかない。その一心だけが彼を突き動かした。



  「ほら、美味そうな肉がここにいるぞ! 食べな!」



  今まさに命の瀬戸際にある彼だったが、震える感情を抑えて弟たちが生き残れる可能性を導き出していく。それが兄としての務めだと考えたからだ。



  「兄貴、お前!」

  「兄さん……」



  死を覚悟した兄の言葉。もう迷いは許されない。兄を見捨てるという辛い決意の下、固い絆で結ばれた三人は一度強く頷くと、弟二人は自分の頬を殴って冷静さを取り戻すと、後ろを振り返らずその場から一目散に逃げ出した。



  「俺の分まで生きてくれよな。」



  次の瞬間、兄の視界は神狼の口腔に遮られ、その体は生暖かい空間に包まれたのだった。





  彼は酷く蒸し暑さを感じていた。獣の体温は人のそれよりも高いと聞く。或いはそれが原因なのかも知れない。



  「恰好つけちまったかな。俺の命運も、もうここまでって訳だ。」




  狼という生き物は、喰いやすい大きさにまで獲物を引き千切ると、後は大して噛まずに飲み込んでしまうらしい。自分にもそんな運命が待ち受けているのだろうと、彼は怯えた。

  そして早くも、神狼の牙が彼の右腕に向かって振り落とされた。



  「うぐわっ、ぐうぅっ!」



  これまでに経験したことのない激痛にその身をよじる。ズタズタになった右腕の傷口に神狼の唾液が沁みる。力無き被食者が仲間を守るにはこれしかない、我慢しなければ。そう思ってはいても、本能的な恐怖が人間の心を震わせる。

  神狼は容赦なく、さらには左脚へと牙を突き立てた。



  「ぐあああ、い、い痛い!」



  あまりもの痛みに堪え切れずに悲鳴を上げるが、いくら悲鳴をあげようとも救いは無かった。神狼にとって人間の血の味は美味に感じられるようで、体から流れ出る血液を吸い取るように人間の体を嘗め回していく。

  抵抗しなかったためか、さほど間を置かずに人間の体は神狼の唾液で包まれ、いつでも飲み込むことのできる態勢が整った。



  「死にたくない、俺はまだ死にたくない。」



  覚悟はしたつもりだったが、やはり生きていたい。生存本能が言葉となって口から出てくる。
  それでも死を目の前にした悲痛な言葉は、圧倒的な力によってねじ伏せられる。奥へ奥へと身体が引きずり込まれていくのが分かる。人の手の遠く及ばない神狼によってどんどん喉奥が近づき、ついには嚥下の音が辺りに響き渡った。

  食道は細い道だったが、唾液の影響で摩擦が効かない状況では、速度を抑えることすらもままならない。神狼に喰われた哀れな獲物は、二度と戻る事のない道を地獄へ向かって滑り落ちていくしかなかった。





  鈍い音とともに、彼は神狼の胃袋へと落とされた。あたりには自分の肉体を溶かしてしまうであろう胃液の匂いが充満している。

  ここが自分にとって最期の場所。これからどれほど苦しんで命を落とすのだろうか。それが誰よりも分かっているからこそ、恐ろしくてたまらない。



  「ぐああああああ」



  早くも胃液の浸食が始まったらしい。最初は右腕と左脚の傷口から、沁みるだけの唾液とは違って、どんどん傷口が広がっていき、嫌でも肉が溶かされているのが分かる。身に付けていた服もあっという間に溶かされてしまった。

  弟たちが逃げる時間を作るんだ。その一心だけで、奥歯を食いしばって痛みをこらえる。もちろん、その程度で耐える事ができるような苦痛ではなかった。

  獲物のうごめきによって刺激を受けた神狼の胃袋は、胃液を出す量をどんどん増やしていくのだった。すぐに左腕は指先から溶けて無くなっていく。



  「ぎゃああああ! 痛い! 痛い! 痛いいいい!」



  それと同時進行で全身に胃液を浴び、むず痒さから痛みへと変わりつつあった。肉食獣の胃袋にとって、人間の皮膚を、筋肉を、骨を溶かし尽してしまう事など造作もない。



  「か、体が、体がああああ! 溶けるうううう!」



  体を溶かし進んでいく胃液に、この世のものとは思えない激痛を感じ、耐え難い苦痛に涙を流す事しかできない。自分の肉が溶ける臭いが彼を包み込んでいく。

  すでに彼の皮膚はドロドロのゲル状になり、目も当てられない姿に成り果てている。元より牙によって傷つけられていた右腕と左脚は、とうとう千切れてしまったらしい。そして切断面もまた、根元へ向かって溶けていくのだった。

  さすがに全身を溶かされては命を繋いでいくことはできない。すでに呼吸は浅く、いつ止まってもおかしくない状態にまで陥っていた。



  「はあ、はあ、これも、食物連鎖、か。」



  弱い生き物である人間は、強い生き物である神狼に命を捧げて養分とされてしまう。それが宿命だった。

  筋肉までもが溶かされ、不気味な肉のゼリーとなり、全ての抵抗手段を失った彼には死を待つ事しかできない。



  「あいつら、逃げられただろうか? もう一度、もう一度だけでいいから、あいつらの笑顔見たかったな。」



  絶えない激痛の中、もう叶う事のない願いをそっと胸に抱く兄。

  そして胃液は彼の内臓へと達する。生命維持に必要な器官は片っ端から溶け落ちていき、既に溶かされた他の部分の肉と混じり合っていく。これまで一時たりとも動きを止めなかった彼の心臓も、胃液の作用によって穴が開き、その形を失っていった。



  「う、あ、ぎゃああああああああ!」



  神狼の餌は激しい断末魔の後、最期まで苦しみから解放されることなく、最悪の形で、その短い生涯に幕を引いたのだった。
16/06/01 22:56更新 / 天地水
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