連載小説
[TOP] [目次]
シーン10【汚い描写を含みます】
 グギュルルルゥ……。
「んぁ、お腹が……」
 洞窟の主を深い眠りから覚ましたのは強烈な便意だった。それまで安らかな寝顔を覗かせていたベロリンガの表情が突然に曇り、腹部に右手が添え宛てられる。お腹の真ん中にそびえていた山はすっかりと低くなり、その頂も股の近くまで移動して来ていた。二夜連続の御馳走をすっかり消化して吸収し尽くした今、彼に数日ぶりとなるお通じが訪れたのだった。
「むにゃ……ウンチしに行かなくちゃ……。ついでに昨日のあの子の作品も持って行くかな……」
 眠たい目を両手で擦りつつ、洞窟の主は体を起き上げる。立ち上がって最初に気が付くのは、お腹の底に響くようなズッシリとした重量感だった。
 これは凄い量になりそうだぞ。こんなの一度に出し切れるかなぁ? 期待と不安に胸を膨らませつつ、ベロリンガは燃え尽きかけた焚き火の小さな光を頼りに儀式の準備に取り掛かる。
 紙だ。紙はないだろうか――。あった方が何かと便利なものの、野生では入手困難な紙を求め、ベロリンガは昨晩のブラッキーの荷物を漁り始める。――あった。捜索開始から数十秒後、布製の長方形の袋の中に無数の金属片と共に入れてあるのを探り当てた彼は、全部で十枚近い縦長のそれを全て引っ張り出して片手で握りしめる。それが街で流通する最高額の紙幣であることなど、気に留める事はおろか、気付きすらしないのだった。
 もう片方の手で昨晩の獲物にトイレ代わりに使わせたバケツを携えれば準備は完了だった。寝起きでぼやける視界を出口の方へ向けると、洞窟の壁面は明るんでいるものの、光は差し込んで来ていない。まだ時刻は夜明け前らしかった。
「ふぁーぁ……戻ったら二度寝しようっと……」
 いっぱい食べて蓄えも作ったことだし、今日の一日くらいは涼しい洞窟の中でのんびりと過ごすのも良いかも知れない。大あくびをしながら心に思ったベロリンガは出口に向かってノロノロと歩いて行くのだった。
「……ほぇっ!?」
 が、緩やかなカーブを曲がり切って外の世界を目の前にした瞬間、彼は間の抜けた声を上げて危うくバケツを取り落としそうになる。それもその筈、まだ顔すら出していない筈の太陽が既に空の一番高い所にまで昇り切っており、辺り一面に灼熱の夏の陽射しを降り注いでいる最中だったためである。夜明け後も遅くまで雲が陽の光を遮っていたために朝の訪れに気付けなかったこと、二日連続の獲物を養分に変えるのに無自覚ながら相当の体力を要したことが重なり合い、彼は大寝坊をしてしまったのだった。
「どうしよう、お昼まで寝ちゃった。夕方まで我慢なんか出来ないよ、これ……」
 なるたけ涼しい時間帯に済ませたい行為なだけにベロリンガは落胆の色を隠せない。そんな彼が異様に膨らんだ下腹部に視線を落とした直後、
「あっ、出る……」
 プスゥゥゥゥッッ。
 音のないオナラが漏れるのと同時に、支えを失った便意の正体が直腸までドッと押し寄せて来る。出口を求めてカップルの二匹が腹の中で暴れ始めたのだった。辺り一帯を濃い腐卵臭が覆い尽くす中、彼は苦渋の選択を迫られる。
 何か逃げ道はないだろうか。そう考えて最初に思い当たったバケツを凝視した彼であったが、大慌てで首を左右に振るう。この二日間で食べた量が量だった。間違いなく大惨事になるだろう。その結末は容易に想像が付いた。
「……行かなきゃ」
 洞窟の主は大きく深呼吸して目の前の灼熱の空間を見据える。
 これは後にしよう。重い荷物は置いて行くべきだ。そう判断した彼はバケツを脇に置き、出口の近くに転がったままになっていた赤い宝石を拾い上げ、トイレットペーパー代わりの紙幣の上に乗せて握りしめる。昨晩の獲物が床に描いた満月模様を飛び越え、彼は覚悟を決めて炎天下の屋外へと繰り出すのだった。
「うぅっ……!」
 真夏の陽の光に貫かれ、むせ返るような熱気に全身を包まれた彼を強烈な目眩が襲う。同時に体中の汗腺が開き切り、臭いの強い脂汗が間欠泉のように噴き出して全身をベットリと湿らせる。
 とにかく前へ進まないと。極限の蒸し暑さと迫り来る便意に耐えながら、彼は目眩が治まるのと同時に目的地へ向かって歩き始める。目指すは裏山の頂上に広がる果樹園の一画に新設したトイレ、もとい肥溜め。最後に用を足した時に満杯となったため、新しいのを掘っておいたのである。
 伸び放題になった雑草を大きな足の裏で踏み潰しながら進んで行くと間もなく、生い茂る木々の間に地面から突き出た黒っぽい大岩が見え始める。彼の背丈の二倍ほどあるそれは、登山口の目印となる物体だった。
 やがて大岩のすぐ脇を通り過ぎた彼は、その向こう側に伸びていた山道に差し掛かり始める。大部分が固く踏み締められた土で作られたそれは、なるべく勾配の緩やかな斜面を選びつつ、かつ遠回りにならずに山頂を目指せるルートを試行錯誤しながら登り下りを繰り返す中で、自然に形成されて行った登山道だった。
「ふぅっ、はぁっ……足が……重い……」
 普段なら難なく登って行ける筈の道だったが、今回は話が違った。二夜連続の御馳走が祟ってデブの中のデブに成り果てた彼の息は急速に上がって行き、丸い頭の天辺からベタベタした汗が滝のような勢いで滴り落ち始める。
 伸ばした長い舌をハンカチ代わりに額の汗を拭うも、流れ落ちて来る汗の量は際限がなく、少しでも舌の動きを止めようものなら目に入って、地味ながらも痛いお仕置きが待ち受けた。それを嫌がった彼は、せわしなく舌を動かして、塩辛くて脂っぽい液体をベロリ、ベロリと何度も舐め取るのだった。
「ふひぃっ……間に合うかなぁ、これ……」
 心臓をバクバクと高鳴らせて息をゼェゼェと切らせる彼は、強まる一方の便意に不安を募らせ始める。丸っこい全身に贅肉がたっぷりと巻いた今の彼は、さながら限界まで空気が入れられた桃色のゴム鞠のよう。今まで通りに登って行ける筈もなく、普段の半分のペースも出せないのだった。
 二匹が強行突破を試みる度に、お尻をギュッと絞って門前払いにし続けて来たものの、それはコントロールが難しい生理現象。お尻の穴に力を込める度に効果は薄れる一方で、バリケードは確実に壊されて行っていた。
 もう諦めて適当な場所で済ませちゃおうか。弱気な考えが頭に浮かぶが、ピンと伸ばした背筋をプルプルと震わせつつ、脂汗に混じって冷や汗を流しながらも、彼は健気に坂道を上り続ける。
 そんなの自分に命を捧げてくれた獲物達に失礼だ。特上の肥やしになって、豊かな実りをもたらす土に還って行くまでを見届けてあげるのが食べた側であるオイラの使命というもの――。彼は汗と唾液に塗れた顔を上げ、徐々に姿を現し始めた山頂を確と見据える。
 左手に断崖を眺めながら急カーブを曲がり切り、大小様々の石が転がるデコボコ道を上り切れば山頂だった。もう少しの辛抱だ。自分に言い聞かせつつ、足場の悪い地面を避けながら一歩ずつ確実に進んで行く彼であったが――ゴロリ。しっかりと踏み付けた筈の石が足の下で転がり、バランスを崩し掛けた彼の全身を大電流が駆け巡る。
「はうぁっ……!」
 ミチッ、ムリムリィッ!
 反射的に全身を弓形に反らせた彼の両手がお尻へと回される。運命の瞬間の訪れを告げる不穏な音は彼の耳にも鮮明に届いていた。
 まずい、頭が出てしまった――。絶望のあまりに表情を凍り付かせた彼は首を回して尻尾の方を見遣る。その後で股の間に恐る恐る視線を落とした彼であったが、落とし物らしきものは特に見当たらない。
 不幸中の幸いだった。まだオイラは終わっちゃいない。両手でお尻を抱えたまま爪先立ちになってしまった彼は、抜き足差し足忍び足で最後の坂道を上って行く。もはや僅かな衝撃ですら命取りだった。今の彼は、少しでもショックを与えようものなら信管が起動して炸裂する爆弾をお尻に巻き付けて運んでいるにも等しい状態なのだから。
 坂道を上り切ると、そこはもう山頂の果樹園だった。乱雑に立ち並ぶ大小様々の果樹には目もくれず、彼は腐食し掛けた大きな木の板が無造作に置かれてある果樹園の一画を目指して爪先立ちのまま一目散に駆け寄って行く。
「……んあぁっ! 漏れる、漏れちゃうぅっ!」
 顔を真っ青にしたベロリンガが半狂乱になりながら絶叫する。木の板を両手で持ち上げて移動させる余裕すら失っていた彼が足でひっくり返した下から現れたのは、数回は余裕で儀式を執り行えそうな大きさをした真新しい肥溜めだった。
 何とか間に合った! ぽっかりと口を開けた穴に跨り、お尻をどっしりと低く降ろしてウンチングスタイルを決めれば一安心。後は爆発寸前の便意に身を委ね、溜まりに溜まったものをスッキリと出し尽くす爽快感に酔いしれるだけ――の筈だった。
「んんっ、んくっ……! で、出ないぃっ……!」
 踏ん張りながら表情を歪めるベロリンガ。我慢の連続で圧搾されて太くなってしまったそれは、登山を終えて疲労困憊となった今の括約筋の力では、極めてひり出すのが困難な代物と化していたのである。
 これは長期戦になりそうだ。いったん引き下がって息を整えてから挑むことにしよう。大きく息を吐き出して、額で無数の玉になっていた脂汗をベロンと舐め取った彼は、お尻の穴を窄めて引っ込めに掛かる。
 だが――絞りカスの二匹は彼に復讐するかのように絶大な苦痛を強いて来る。引っ込めるのは叶わず、お尻の穴を限界まで押し広げた状態で引っ掛かってしまうのだった。
「んぁ……!」
 予期せぬ事態に直面した彼は声にならない悲鳴を上げ、両目と口とを一杯に開いた物凄い形相となる。両手は再びお尻に回され、鋭い痛みに彼はピクピクと全身を痙攣させ始める。
 大変な状況になった。こういう時はどうすれば――。一度も経験がない出来事に、彼は右に左に上体を捻って痛みを堪えつつ、パニックに陥りながらも解決の糸口を求めて必死に頭を働かせ始める。耐え忍びながら考え続けること一分近く。止むを得ず採択したのは強硬策だった。
 このまま一気にひり出してしまおう。どうせ出さずには済まない代物なのだから。少々お尻が裂けてしまっても構うものか。その程度のケガ、きっとすぐにでも治るだろう――。二匹との対決を決意した彼は両足の間隔を広げて屈み直す。慣れとは素晴らしいもので、両手をお尻から放して準備を完了させる頃には、あれだけ激しかった筈の痛みもあまり気にならなくなっていた。
「呆気なく食べられちゃった割に随分と頑張るねぇ。ウンチだけに粘り強くなったのかな? ……まぁいいや、二匹まとめてひり出してあげるよ。ブリブリッとね」
 足下に向かって独り言ち、彼は大きく広げた二つの鼻孔からスゥーッと、ただでさえ飛び出たお腹がパンパンに膨らむまで空気を吸い込んで行く。限界まで吸引して息を止めた直後――お腹の底に渾身の力を込めて踏ん張り始める。
「んぐぐっ……んんっ……!」
 胸の前まで持って行った両手をプルプルと震わせつつ、ピンク一色の顔を真っ赤に紅潮させながら力み続けるベロリンガ。ない歯を必死に食いしばりながら格闘を続ける彼であったが、果たして効果はあるようだった。それまでビクとも動かなかった頭が僅かながら出て行くのを感じ取ったためである。
「……ぶはぁっ! あぁ、苦しい! でも……このまま気張り続ければ何とか……!」
 息が続かなくなった時点で一ラウンド目は終了。激しく肩で息をしながらも、確かな手応えに彼は表情を明るくする。この調子で攻め続けよう。丸い頭をベロベロと舐め回して汗を拭い、何度も深呼吸を繰り返して息を整えた彼は、休むことなく次のラウンドに臨む。やることは先程と同じ。鼻から大きく息を吸って、止めて――死力を尽くして踏ん張るのみだった。
「ふむぅっ……! んんっ、んんんっ……!」
 形勢は確実に傾いて来ていた。ゆっくりと確実に絞り出されて行っているのが手に取るように分かる。このまま踏ん張り続ければ全てひり出せるだろう。しかし――そこで彼は運悪く新手の刺客に襲われてしまう。
「かっ、固いぃぃぃぃっっっ……! 一昨日に食べた子、カチンコチンの岩タイプになってるぅっ……!」
 ベロリンガは激しく表情を歪めながら何もない宙を両手で必死に掴もうとする。
 いささか大袈裟ではあったが、内容は言葉通りだった。久々の大きな獲物の到来に戸惑った胃袋から先の消化管が対応に丸二日も要してしまった結果、水分を吸われ過ぎた固い大便になってしまっていたのだった。
 お尻が血だらけになっちゃう! 患部を紙やすりで擦られるような新感覚の痛みに恐れ戦いた彼は、そこで踏ん張るのを中断してしまう。
「は……反則だよ、君……! いくら悔しいからって、こんな仕返しするの……!」
 よっぽど痛いのだろう。彼は涙声になりながら足下に呼び掛ける。泣きべそをかき始めた彼であったが、やがて心の中にフツフツと込み上げてきたのは負けず嫌いな気持ちだった。
「ふぅっ、はぁっ……! 君みたいな生意気な子はこうだよ! ふんぬぅっ……!」
 もう一踏ん張りで終わらせてやる! 目元に浮かんだ涙をペロリと一舐めにし、彼は痛みに耐えながら最後の勝負に打って出る。出て来るペースは相変わらず遅いものの、徐々にザラザラした感触が消えて痛みが薄れて来たことから察するに、状況は好転しているようだった。
 行ける! 固いのは先端の一部分だけ、後は普段と何も変わりない感じだ! 加減して抜いておいた力を下腹部に込めて行けば、ひり出す勢いも増して行く。遂に峠を越え切ったのだった。
「よぅし、良い感じ……! この調子で……んんっ! 昨日に食べた子もぉっ……途切れずに出て来てぇっ……!」
 残る不安は途中でぶつ切れになってしまうこと。夫婦の仲を引き裂くようで何とも縁起の悪い話であり、彼としては絶対に避けたい展開だった。
 どうか綺麗な一本糞になりますように! 静かに目を閉じて手を合わせ、彼はフィニッシュに取り掛かる。
「……んんっ! んんんっ! んむむむむむむぅっ!」
 太い呻き声を上げると同時に下腹部が大きく波打ち、すっかり栓を失った便意の正体が勢い良くひり出され始める。腕ほどの太さもある粘り強いそれは、一度も千切れることなく黄金の螺旋を描きながら山盛りになって行くのだった。
 危うく肥溜めから溢れさせる寸前でひり出し終え、最後に思い切り放屁して腸内に残るガスを根こそぎにすれば、天にも昇るような爽快感が彼を包み込んだ。独特の臭気がモワリと舞い上がる中、あまりの気持ち良さに表情を崩し尽くした彼の口から大量の涎が溢れ出る。
「ぬはぁっ、サッパリした……!」
 長い舌をダラリと垂らして余韻に浸るベロリンガ。重かった体も随分と軽くなった気がした。
「……ついでにオシッコも済ませて行こうっと!」
 獲物を平らげた翌日は決まってしたくなるものだ。彼はトイレットペーパーに伸ばし掛けた手を止めて、その瞬間の訪れを待つことにする。果たして予想は的中し、間もなくして強烈な尿意に襲われてしまった彼は、今度は我慢することなく欲求を発散させ始めるのだった。
「……おおっ、昨日に引き続いて今日も凄い量だよ。オイラ達の体の大部分は水で出来ているって話、あれは本当なんだねぇ」
 その大部分の由来は昨日に食べた獲物から搾り取った水分。昨夜に吸収された後で老廃物と共に濾し取られ、今になって溢れ出したのだった。ほとばしる液体を眺めつつ、彼はしみじみと呟く。
 やがて最後の一滴まで絞り尽くした彼は、持参したトイレットペーパーを一枚も残さずに使い果たして神聖な儀式を締め括る。手のひらの上に最後まで残ったのは一昨晩に食した獲物の額の球だった。
「……宝物にするつもりだったけど返すよ。これ以上も君と旦那さんを悲しませたくないからね」
 もはや自分が持っておくべき代物でないことは明らかだった。神妙な面持ちで手の中の宝石に語り掛けた後、彼は迷うことなく穴底にポトリと落としてしまう。夫婦水入らずを邪魔してはいけない。彼は用を足したばかりの肥溜めを二度と使わずに埋めてしまうことを心に決める。
 さて、どんな芸術作品に仕上がったかな? 用を足した後は鑑賞するのが趣味になっていた彼が抜群の手応えに胸を躍らせつつ、お尻を落としたままの状態で大きく後退しようとした――その時だった。
 ガサガサッ!
 草むらが大きく揺れる音が聞こえてくる。ちょうど山を登って来た方向からだった。
「……おやっ? 何だろう?」
 しゃがんだ姿勢のまま音のする方に体を向けて正体を探るも、茫々に伸びた夏草が視界を遮って何も見えてこない。今後はもう少し頻繁に果樹園の草むしりをすることにしよう。そんなことを思いながら立ち上がって確認しようとした次の瞬間、自分の背丈ほどもある雑草をかき分けつつ、草むらを揺らす音の正体が目の前に飛び出して来る。
 真っ黒い足と胴体、青い尻尾に首周りの黄色いリング模様、赤い大きな目の周りをマスク状に覆う黒い毛が特徴的な二足歩行の犬のポケモン――リオルだった。
「……うわっ!」
「……ひゃっ!」
 二匹の叫び声が交錯する。草むらから全速力で躍り出て来たリオルの真正面にあったのは、クリーム色の三日月模様が特徴的なベロリンガの大きな柔らかいお腹。避けられる筈もなく衝突して体の前面をブニュリと食い込ませた直後、押し戻されて仰向けに倒れ込む。
「おっ、とととっ……!」
 まずい、このままでは肥溜めに背中から落ちてしまう……! 反作用で大きく後ろにバランスを崩してしまったベロリンガは短い両腕を必死に回して持ちこたえる。
「あ、危なかった……!」
 何とか体勢を立て直してホッと一安心したのも束の間、またしても近くの草むらが揺れ始める。
 今度は何だ!? 慌てて身構えた瞬間に同じく草むらから飛び出して来たのは、先端がカールした六本の大きな尻尾を持つ、頭の上にフサフサした綿毛を乗せた狐のポケモン――ロコンだった。
「……えっ?」
 今までに何度か目にした経験があったものの、その姿を一目見るなり彼は驚きの声を上げてしまう。果たして彼の目の前に現れたのは、全身を雪のような真っ白い毛皮に包まれ、氷のように透き通った青い目を持つ、一般的な個体とは似て非なる、世にも珍しい姿恰好をしたロコンだったのである。
 姿格好が違えばタイプも異なるらしい。真っ白いロコンの体表に漂うのは熱気ではなく、ひんやりとした冷気だった。およそ信じがたいものの、炎タイプとは正反対の氷タイプと見て間違いなさそうだった。
 彼が呆然と見惚れる前で真っ白いロコンは地面に崩れ落ち、肩を激しく上下しながら荒い息をし始める。激しく息を切らしているのは先に駆け込んで来たリオルも同様だった。
 只事ではなさそうだ。何か事件にでも巻き込まれたらしい。ベロリンガが思い始めた直後、倒れていたリオルが飛び起きて、藁にも縋る様子でしがみ付いて来る。最高に蒸し暑い中で一仕事を終え、近寄ることすら躊躇われる状態にあることなど気にも留めなかった。
「か……かっ、匿ってください! おっ、恐ろしい大きな鰐のポケモンに追われていて……!」
 両目に涙を溜めながら恐怖に怯え切った表情で助けを求めて来るリオル。その言葉から大方の状況を察したベロリンガは冷静にこう返す。
「落ち着いて! 君と一緒に来ているのはこの子だけかい?」
 質問にリオルは首を縦に振って応じた。
 とりあえずは一安心だ。ベロリンガは汗まみれの腕でリオルの体を抱き寄せ、自身と同じ方を向かせる。
「……あすこに何本も根っこが地上に浮き出た太い幹の木が立っているのが見えるかい? あの木の根元だけど入って行けるようになっていて、丁度いまオイラと君が見ている反対側に入口の穴があるんだ。体の小さい君達なら簡単に入って身を隠せる筈だよ!」
 すぐ近くに生えている木であったものの、ベロリンガは目的の木を指差しながら丁寧に説明する。腕の中のリオルは言葉の一つ一つに頷いて見せた後、説明の最後で大きく頷いて了解の意を伝える。
「でっ、ですが、あなたは……!?」
 後は行動あるのみだったが、どういう訳かリオルは戸惑った様子で顔を見上げて来る。
 さてはオイラが代わりに狙われてしまう展開を危惧しているな。とっさに悟った彼は相手の尻をポンポンと叩いて落ち着かせた後、耳元でこう小さく呟く。
「……大丈夫、心配には及ばないよ! アイツの扱いには慣れているからね。適当に言い繕って帰って貰うまでさ。それより問題は君達だよ! 匿った以上、万が一にでも見つかったらオイラもタダじゃ済まなくなっちゃう! ……さぁ、その子を連れて早く行くんだ! オイラが良いって言うまで絶対に出て来ちゃ駄目だからね? 時間がない、急いで!」
 その言葉に安心したのか、軽く背中を押して解放した直後、リオルは迷うことなくロコンの元へと走り寄り、そして、
「コユキ、もう少しだけ走るぞ! 僕について来るんだ!」
 相方の体を抱き起し、指示された木の根元へと一目散に駆けて行く。一方のロコンもベロリンガに向かってペコリと一礼して見せた後、残る気力を振り絞ってリオルの背中を追い始めるのだった。二匹の姿が目当ての木の裏側に消えて行ったのを見届けた後、ベロリンガは何食わぬ顔で肥溜めの真上に陣取って腰を深く落とし、用を足している風を装い始める。
 ……来た! 平静を装うベロリンガに緊張が走る。あれだけのデカブツだ。背の高い雑草が邪魔したところで否が応でも目に入ってしまう。ズシン、ズシンと地鳴りのような足音を響かせながら山道を登り切り、果樹園に踏み込んで来たのは――青い体に巨大な顎と大きな牙、頭と背中と尻尾の三か所に生える赤いトサカが特徴的な、見るからに凶悪そうな眼光鋭い鰐のポケモン――オーダイルだった。
「グルル……。すばしっこいガキ共が。どこに隠れやがった?」
 スンスンと鼻を鳴らしながら辺りを見回し始めるオーダイル。逃げ惑う二匹の姿と匂いを追い掛けて裏山を登って来たのだった。
「ん? アイツは……?」
 気付かれてしまった。視線が突き刺さるのを感じ取ったベロリンガは身を固くする。
 ギリギリまで気付いていないフリをしていよう。徐々に足音が近付いて来る中、彼は立ち上がってしまいたい気持ちをグッと抑えて肥溜めの上に跨り続ける。
「しばらく見掛けねぇと思ったら、こんな所に居やがったのか。……おいっ、テメェ!」
 ……もう限界だ! ドスの効いた低い声に思わず飛び上がってしまったベロリンガは、肥溜めを背にして大慌てで立ち上がる。そして、精一杯の笑顔を浮かべ、
「やっ、やぁ! 久しぶりだね! 元気にしてたかい?」
 隠し事を悟られぬよう、底抜けに明るい声で挨拶するのだった。
「ガキ共はどこだ!? 言え!」
 出会って早々に怒鳴り声をぶつけて来るオーダイル。ベロリンガの言葉など耳にも入っていない様子だった。
「えーっと……ごめんよ。何の話だい?」
 挨拶もなしに無礼な奴だ。せめて一言くらい返してくれたって良いのに。募るイライラを隠しつつ、ベロリンガは知らない振りを決め込んで見せる。オーダイルが青筋を立てて彼の首元を掴みに掛かって来たのは次の瞬間の出来事だった。
「とぼけてんじゃねぇぞ、この野郎! 山道を逃げて行くのを追い掛けて来たんだから間違いねぇ! ハナからここにいたテメェが見てねぇ方がおかしいんだよ!」
 顔面から数センチにも満たない距離で罵詈雑言を大音声で浴びせられてしまったベロリンガは思わず両手で側頭部を覆う。馬鹿力も良いところで、すっかり重くなった筈の体も軽く腕を前後するだけで激しく揺り動かされてしまうのだった。
「しっ、知らないものは知らないってば! 勘弁してよぉ!」
 二匹の匂いが大便の臭いに紛れるまで何とか時間を稼がないと。恐怖のあまりに口を割りそうになるのを必死で耐えつつ、彼はシラを切り続ける。
 使えねぇ野郎だ。万が一にでも近くに隠れていたらブチ殺してやる。そんなオーダイルがベロリンガの背後に掘られた穴の存在に気付いたのは、自力で狩り出そうと顔を上げた次の瞬間だった。
「あん、何だ? こんな所に穴が開いて……?」
 そんな……あり得ない! この視角からは見えない筈なのにどうして!?
 視線は肥溜めに注がれていたものの、てっきり隠し穴の存在に気付かれたものと思い込んだベロリンガは膝をガクガクと震わせ始める。
 コイツ、さては穴に何か隠して――。そんな推測を立てたオーダイルは穴の中の捜索を決意する。それが用を足されたばかりの肥溜めであることなど、つゆとも知らずに。
「おい、ちょっと調べさせて貰うぜ?」
 怖い顔でギロリと睨むなり、オーダイルは腕に力を込めてベロリンガの体を退かしに掛かる。
「まっ、待ってよ! ここには何もないんだってば!」
「うるせぇ! 引っ込んでやがれ!」
 しゃにむに押し返したベロリンガであったが、抵抗の報復として顔が変形する程の強烈なビンタを見舞われてしまう。
「……ぶっ!?」
 脳震盪を起こしてしまったベロリンガは力なく地面の上に崩れ落ちる。打たれた頬に手を宛がうことも出来ないまま尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れ込んでしまうのだった。
 もうおしまいだ。オイラはここで殺されちゃうんだ――。朦朧とする意識の中でベロリンガは静かに目を閉じる。進化したかった、可愛い彼女も欲しかった、何よりも――結婚したかった。未練だらけで終わっちゃうんだね、オイラの一生。彼の目から一筋の涙が流れ出て、ヒリヒリと火傷したかのように痛む頬を伝って滴り落ちて行った。
 手間取らせやがって。まとめて食い殺してやる――。穴底に身を潜めている筈の二匹の視界に入らぬよう、オーダイルは四つん這いになって穴の縁との距離を縮めて行く。そして――穴の手前まで迫った瞬間、バッと大きく身を乗り出して穴底を覗き込む。果たして彼の目と鼻の先に現れたのは……ベロリンガが産み出したばかりの芸術作品だった。偶然にも息を吸い込むタイミングで鉢合わせてしまった彼は、その臭気を鼻孔から胸一杯に吸い込んでしまう。
「……だぁあああっ!? くっ、臭っせぇぇっ!」
 筆舌に尽くし難い悪臭に嗅覚を破壊されると同時に穴の正体を知った彼は、片手で鼻をつまんで大慌てで後退する。
 助かった……! ベロリンガは仰向けに倒れたまま安堵の溜め息を吐く。
 とんだ勘違いをしていた。根元の隠し穴ではなくて肥溜めのことを言っていたのだ。そうと分かっていれば大人しく引き下がったのに。ちぇっ、殴られ損だったなぁ! ベロリンガは舌打ちする。
 それにしても馬鹿な奴だ。オイラ史上で最高傑作に違いない作品の臭いをあんな至近距離で楽しむなんて。そのまま鼻が曲がって二度と獲物の匂いを追えなくなってしまうが良いさ! ただでさえ青い顔を更に青くしながら嘔吐きまくっていたオーダイルの背後で、ベロリンガは思い切り舌を出して見せるのだった。
「うぉげえぇぇぇっ! ……てっ、テメェ! こんな場所でクソなんか垂れやがって! ガキ共の匂いが紛れちまうだろうが!」
 鼻をつまんだまま振り返って来たオーダイルが咳き込みながら怒鳴り散らす。
「はは、ごめんよ。果樹園で作業をしていたら急に催しちゃって! あいたた……」
 頬の痛みに耐えながら上体を起こしたベロリンガは手を頭に回して見せる。
 いつも用を足している場所なのに! 笑顔を装いつつも、もう片方の手はプルプルと小刻みに震えているのだった。
「あぁ、チクショウ! 折角ここまで追い詰めたって言うのによぉ! テメェのせいで何もかも台無しだ! どう落とし前付けてくれやがんだ、このクソッタレ! ……一昨日の尻尾が二股に分かれた奴も、昨日の真っ黒い奴もそうだ! どいつもこいつも良い所で見逃しちまう! 一体全体どうなってやがるんだ!」
 その責任は皆無にも等しかったが、狩りを失敗に終えたオーダイルは両手で頭を激しく掻き毟りながらベロリンガに当たり散らす。それでも飽き足らずに地団太を踏み始める彼であったが、やがて……
「グルァァァッ!」
 ムシャクシャする気持ちを爆発させると同時に、二匹が逃げ込んだのとは別の木の根元を力任せに蹴り飛ばす。オーダイルの胴回りと同じくらいの幹の太さを誇る大木であったものの、彼の怪力を前に一撃で根元から圧し折られ、メリメリと音を立てながら傾き始めるのだった。
「ああっ……!」
 ベロリンガが悲鳴を上げたのは無理もない話だった。蹴られたのは彼が大切に育て上げて来た果樹の一本だったためである。
 お願いだ、どうにか倒れないで! 必死に念ずるも現実は残酷だった。そんな思い入れに満ちた木は彼の目の前で倒れ行き、幹の先端が着地するのと同時に根元から両断され、二度と元には戻らなくなってしまうのだった。
「そっ、そんな……! ここまで大きく育つのにどれだけ掛かったと思って……!」
 あまりの悔しさと怒りにベロリンガはオーダイルの顔を反射的に睨む。
「……ああ!? 何か文句あんのか!?」
「い、いや……何でもないよ……」
 が、間もなくして目の前まで詰め寄られてしまい、彼は視線を逸らして力なく首を左右に振る他なくなってしまう。
 このクズの中のクズめ! いつかウンチにしてやる! 口を真一文字に結びつつ、彼は言えずに終わってしまった罵り言葉を心の中で叫ぶのだった。
「……それはそうと、テメェ。今年は問題なく収穫できるんだろうな? 去年は秋前に来た嵐のせいでどうたらとか抜かしていたが、今回ばかりは承知しねぇぞ? もし今回もしくじりやがったら……どうなるか分かってんだろうな?」
 馴れ馴れしくも肩に手を回しながら尋ねたオーダイルは、もう一方の手の尖った爪を頸動脈の辺りに押し当てて脅迫する。労せずに冬の蓄えを得る目的で、果樹園の収穫の一部をベロリンガから掠め取っていたのだった。
 喉元に触れて来た鋭利な感覚にベロリンガは全身を硬直させる。
「も……もちろん! 今年こそは上手くやって見せるさ!」
 そんな滅茶苦茶な! 天気ばかりはどうしようもないと言うのに! おまけに君のせいで収穫が大幅に減ったばかりだ! 口に出したくなるのを必死に耐えつつ、彼は出来る限りの作り笑いをしながら応じる。
「ケッ、相変わらず調子の良い話ばっかりこきやがって。口では何とでも言えらぁ」
 オーダイルは鼻で笑って見せる。
「……そういうワケだから、これから定期的に様子を見に来てやるよ。テメェが俺様に渡す分の目方を少しでも誤魔化せないようにするために、な?」
 肩に回した腕で相手の体を引き寄せ、殆ど首を絞めるような格好になりながらオーダイルはベロリンガの耳元で囁く。運良く言い終わった直後に解放されたベロリンガであったが、もはや彼は苦笑いを浮かべる他になかった。
 既に諦めは付いていたらしい。オーダイルは何食わぬ顔でベロリンガに背を向けて元来た道を戻り始める。
 二匹を守り切ったぞ! オイラの勝利だ! 徐々に小さくなって行くオーダイルの背中をしたり顔で眺めつつ、ベロリンガは心の中で万歳三唱をする。その直後にオーダイルの口から発せられる捨て台詞に絶望の淵へと突き落とされるとも知らずに。
「……んじゃ、獲物も追えなくなっちまったことだし帰るぜ。今回の件は俺様の取り分を二割増しにするってことで手打ちにしてやらぁ。有難く思えよ」
「にっ、二割増しって……!?」
 背を向けたまま片手を振って見せるオーダイルの言葉にベロリンガは絶句する。
 冗談じゃない! ただでさえ収穫の半分以上を巻き上げられているのに、これ以上も取り分を減らされてしまったら生きて行けなくなってしまう! 黙っている訳に行かなくなったベロリンガは取り乱した様子で反論する。
「そっ、そんな! 困るよ! オイラが食べる分がなくなっちゃうじゃないか! これじゃ冬を越せな……ぶぅっ!?」
 そんな必死の訴えも途中で立ち消えになってしまう。こちらを振り返ったかと思う間もなく、その巨体からは想像も付かない程の速さで突進して来たオーダイルにボディーブローを浴びせられ、ベロリンガは両頬を膨らませた状態で膝から崩れ落ちてしまう。分厚い脂肪のクッションも彼の前では意味を成さなかった。
「……あぁ? 寝言抜かしてんじゃねぇぞ? 手に入った筈の獲物を諦める他なくなっちまったんだから、これ位は当然だろうが!」
 オーダイルは正拳を深々とめり込ませたままベロリンガの耳元で凄む。
 吐いたら殺される――。台詞の終わりで拳を引き抜かれ、口の中まで上がって来ていた胃液をどうにか飲み下して難を逃れたベロリンガであったが、次なる試練が彼を襲う。
「……それとテメェ、この俺様に意見するとは上等じゃねぇか。いつからそんなにも偉くなりやがった? あぁん?」
 怒りが収まらないオーダイルは正拳を食らわせた手でベロリンガの喉元を鷲掴みにし、上へ上へと持ち上げて行く。爪先が地面を離れる寸前の高さまで吊り上げるのに数秒も掛からなかった。
「あがっ……! ぐっ、苦しい……!」
 両足の爪で全体重を支えながらオーダイルの手を引き剥がしに掛かる彼であったが、筋力に乏しい両腕ではビクとも動いてくれない。自慢の舌を使えば何とかなりそうな気がしないでもなかったが、今の状況でそうするだけの勇気は持てなかった。
 もういっその事、匿った二匹を差し出してしまおうか。極限の苦しみの中で首をもたげて来たのは卑劣極まりない考えだった。そもそも二匹がどうなろうとオイラには関係のない話だ。二割増しの件だって撤回してくれるだろう。損を被ってまで見ず知らずの存在を守ってやる義理なんてないのだ。さぁ、言え。言ってしまうんだ。ベロリンガは覚悟を決めて口を開く。
「にっ、二匹は……」
「あぁ、何だって!? 聞こえねぇぞ!?」
 オーダイルはもう一方の手を耳元に当てる。あまりに強く首を掴まれていたため、上手く声に出せなかったのだった。
 いや、やっぱり駄目だ。肝心の潜伏先を口走る寸前でベロリンガは口を固く閉ざす。
 白状するのは二匹を匿った事実を認めるに等しい。そうなれば収穫の取り分どころの話ではなくなってしまう。およそ受け入れられない要求だが、ここは大人しく呑む他にない。ベロリンガは紙一重で考え直すのだった。
「わ……分かった、分かった! オイラが悪かったってば! 君の言う通りにさせて貰うよ!」
 今回は問題なく伝わったらしい。納得が行ったオーダイルはフンと軽く鼻を鳴らして首から手を放す。直後、ベロリンガの体はボディーブローを浴びた時と同じく膝から崩れ落ち、激しく咳き込み始めるのだった。
「そうだろうが。奴隷の分際で生意気な口ききやがって。次は首を撥ね飛ばしてくれる!」
 眼下で苦しむベロリンガを足蹴にした後、オーダイルは今度こそ元来た道を戻り始める。去り際、彼は思い出したように振り返ってベロリンガを横目で睨みつつ、
「忘れんじゃねぇぞ? これがテメェに手出ししねぇ唯一の理由なんだからな?」
 そう一言、極太の釘をグサリと突き刺してから果樹園を後にするのだった。
 これこそが両者の関係の全てだった。森の食物連鎖の頂点に位置するオーダイルがベロリンガを捕食しないワケ――それは殺さずに生かしておく限り、半永久的に果樹園の収穫の上前を撥ね続けられるからに他ならなかった。
「……ああ、にしても臭せぇ! どんなゲテモノ食ったらああなるんだ、ったく!」
 鼻先を手で何度も扇ぎつつ、オーダイルはぶつくさ言いながら坂道を下って行った。
「……君達のことゲテモノだってさ。酷い奴だよね」
 オーダイルの姿が果樹園から完全に消え去った後、ようやく足腰が立つまで回復したベロリンガは肥溜めに向かって小声で呟く。
 そういえば――。ベロリンガは何気なく聞き流していたオーダイルの台詞を思い出す。彼の発言にあった尻尾が二股に分かれた奴、それに真っ黒い奴というのは――
「よくよく考えてみたら君達のことじゃないか。……オイラの知らない所で危ない橋を渡っていたんだね。アイツに目を付けられて良く生き延びられたものだよ」
 もっとも、その後でオイラに食べられちゃったワケだから何の意味もないけど! ベロリンガは肥溜めの底を眺めつつ皮肉な笑みを浮かべる。
「でもまぁ……オイラに優しく食べて貰えて良かったね、君達。アイツの手に落ちたら最後、そうは行かなかったよ?」
 下手したらウンチにすらなれなかったかも。彼は心の中で付け加える。
「あっ、ああ……! かっ、返してくれ! そいつは俺の脚……! ち、違う、そうじゃない! 止せ、来るな……! ぎゃゃあぁああああああ!」
 オーダイルに喰われて行った獲物の断末魔がベロリンガの脳裏に蘇る。彼に捕らえられた者が辿る道はただ一つ。巨大な顎で四肢を噛み砕かれ、そして食い千切られ……徹底的に切り苛まれた挙句に全身を破壊されるのみだった。
 獲物を壊すのを楽しむだけ楽しんでおいて、少しでも口に合わなければ手付かずも同然のまま食べ残すことも日常茶飯事だった。見るに見かね、そんな哀れな犠牲者達を彼が丁寧に埋葬してあげたのは一匹や二匹の話ではなかった。
 その犠牲を初めて防ぐことが出来た! 今日は記念すべき勝利の日だ! 誇りを胸に、ベロリンガは匿った二匹が息を潜める木の根元を向き直る。
「……行ったよ。もう出て来ても大丈夫!」
 身を隠していた二匹も気付いていたのだろう。囁き声で呼び掛けると同時にリオル、そしてロコンの順番で穴から出て来る。いの一番で感謝の意を伝えるべく、駆け足でベロリンガの正面に整列した二匹であったが……風に乗って漂って来た便臭に思わず両前足で鼻を覆う。肥溜めの存在もその瞬間に気付かれてしまうのだった。
「く……くちゃい……」
 臭気にやられてしまった真っ白いロコンは目を細めて後ずさる。一方のリオルは後退こそしなかったものの、その視線は肥溜めの底に釘付けとなってしまう。
「あぁ、ごめんよ! トイレの最中だったんだ! 君達も間が悪い時に来ちゃったものだねぇ!」
 ベロリンガは頭を掻きながら笑って見せる。限りなく鈍感で能天気な性格をした彼は、この手の物を見られた所で恥ずかしいとも何とも思わないのだった。
「でも……アイツ、これで鼻が曲がっちゃったみたいでさ。君達の匂いを追えなくなって引き上げて行ったんだ。君達も運が付いていたよ。ウンだけに、なーんて! あははっ!」
 オーダイルを出し抜いた喜びのあまりに気を大きくした彼は、お下劣な冗談を披露しながら自分で大笑いする。
 ……おっと、しまった。流石に気分を悪くしたかな? そう思ってピタリと笑うのを止めた彼であったが、果たして二匹は予想外のリアクションを見せ始める。怖いもの見たさの気持ちが募ったのか、リオルは慎重な足取りで肥溜めの縁まで進んで行って屈み込み、ベロリンガの作品に興味津々な眼差しを注ぎ始める。
「こっ、これは……! いったい何を食べたらこんなにも立派なのが……?」
 鼻を塞いだままのリオルの口から興奮し切った声が漏れる。
「ふふっ、それは内緒!」
 新婚ほやほやのカップルの二匹さ! 何なら君も真っ白い彼女と一緒にオイラの作品になってみるかい? 面と向かって言える筈のない回答をベロリンガは心の中で述べる。
「……まぁ、一つ言えることは、こんなのがひり出せるくらいに君達もいっぱい食べて大きくならないといけないってことさ! オイラみたく横に大きくなっちゃ駄目だけど!」
 ベロリンガは大きく胸を張りながら腰に両手を当てて見せるのだった。
「ちょ……ちょっと、ブルース! やめなさいってば! あんまりジロジロ見ちゃ失礼よ……?」
 目のやり場に困ってしまったロコンは声でリオルを制する。……が、そう言う彼女自身も徐々に膨らみ行く好奇心には抗えず、とうとう肥溜めの底を覗き始めてしまうのだった。
 別に遠慮しないで近寄って見てくれたら良いのに! ベロリンガは口に手を当てて相手の反応を笑って見せるのだった。
「でも……凄い。こんなにも大きくて綺麗なグルグル巻きのウンチ……あたし、生まれて初めて見たかも……!」
 最高に恥ずかしい気分になりながらも胸の高ぶりは抑えられなかった。両頬を真っ赤に染め上げたロコンは思わず感想を口走る。可憐そうなイメージも自らブチ壊してしまうのだった。
 ドン引きされるかと思ったら興味の対象になっちゃった。子供って意外とこういう物が好きなのかも知れないね。夢中で観察を続ける二匹の背中を眺めつつ、ベロリンガは腕組みをするのだった。
 それにしても……こうして見ると子供って本当に魅力的だなぁ! 自分と同じ両生類、もしくは爬虫類の相手にしか強く抱かない感情であったものの、幼い二匹の圧倒的な破壊力を前にベロリンガは呆気なく心を奪われてしまう。
「あぁ、メロメロになっちゃいそう……!」
 小声で呟いたベロリンガの口から幾筋もの涎が滴り落ちる。
 こんなにも素敵な二匹は味と舌触りで永遠に記憶したい。と言うより、ねっとりと舐め回した挙句に食べて永遠に自分のものにしたい――。二匹への思いが膨らむにつれて倒錯した感情が育まれて行く。食べちゃいたいほど可愛い、彼の中で芽生えたのは文字通りの気持ちだった。
 タイプで相性の悪いリオル君は不意打ちで食べちゃおう。しなやかで強靭な体の彼とて、鍛えようのない股の谷間を舐められては一撃で脱力してしまう筈。情けない恰好になった瞬間を舌で包み込んでペロリと一呑み、数秒足らずでノックアウトだ。
 その後で真っ白いロコンちゃんを頂こう。厚い脂肪を蓄えた今のオイラに半端な氷技など通用しない。寝起きの口と汗臭いベロの凶悪な組み合わせで申し訳ないが、暑い夏にぴったりのひんやりと冷たい彼女は温くなるまで舐め転がして、すっかり目を回した後で食べちゃおう。
 でも――ここは思い止まらなきゃ。ベロリンガは膨らみに膨らんだ下品な妄想をバッサリと切り捨てる。厳しい冬が訪れるまでに栄養を付けておく必要があるとは言え、こんな量を三日連続で食べては流石に体を壊しかねない。
 それに――。彼は片手を胸に当てながら静かに目を閉じる。オイラが食べるのは肉付きが良くて美味しそうな大人の獲物だけ。アイツと違って、こんなにも小さくて幼い子供に手を出すほど落ちぶれちゃいないのだ。
 後は適当に話でもして帰って貰うとしよう。目を開けたベロリンガは二匹を視界の中央に据える。
「……んん! 時に君達!」
 咳払いの音で我に返った二匹は大慌てでベロリンガの前に整列する。
「いやぁ、助かって良かった! あと少しでもタイミングが悪ければ手遅れになっている所だったよ!」
 喜びの感情を素直に爆発させたベロリンガに対し、コユキと呼ばれた真っ白いロコンは深々と一礼する。
「こちらこそ危ない所を助けて頂いて本当にありがとうございました。……ほら、ブルースも頭を下げて!」
 横目で促されたリオルも数秒遅れで彼女に倣う。流石にこの時ばかりは二匹も鼻を塞がなかった。
「礼には及ばないよ。当たり前のことをしただけさ」
 ベロリンガは気取ることなく返す。
 食べてばっかりも良いけど、たまには良い事もしなくちゃ。あくまでも二匹を助けたのは謙虚な気持ちからだった。
「あの……ずっと怒鳴り声が聞こえていましたが、乱暴されたりしませんでしたか? これ……良かったら使ってください」
 やり取りは二匹の耳にも届いていたらしい。真っ白いロコンが肩掛け式のバッグの中から不安そうに差し出して来たのは、傷薬の詰まった小瓶だった。
「いや、ちっとも! 心配してくれてありがとう! 気持ちだけ受け取っておくよ!」
 首を左右に振りつつ両手を前に突き出して見せた瞬間、真っ白いロコンは屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「本当ですか!? 良かった……!」
 思いっ切りビンタされた上に腹パンまで浴びたけどね! 心の中で呟くも、その愛くるしい限りの表情に彼は痛みなど忘れてしまうのだった。
「……さて、互いの無事を喜び合ったところで、君達には少しだけお説教に付き合って貰おうかな」
 真っ白いロコンが小瓶を仕舞った時点で彼は唐突に切り出す。お説教という単語に子供らしく敏感に反応した二匹は、途端に背筋を真っ直ぐにして張り詰めた顔になる。分かりやすい反応に思わず笑い掛けたベロリンガであったが、何とか真顔をキープしながら次なる台詞を紡ぐ。
「怖い目に遭ったのは心から同情するよ。でも……ここは君達がたったいま経験したようなことが当たり前のように繰り広げられる弱肉強食の野生の世界。厳しい言い方で申し訳ないけど、はっきり言って今回の一件は君達の自己責任以外の何物でもないんだ」
 語気を強めるのに比例して二匹は肩を落として行く。その様子は特にリオルで顕著だった。
「この森に君達がどういう理由で来ていたか大体の察しは付いている。オイラだって気持ちは分かるよ。お宝が埋まっているなんて聞いたら探したくなっちゃうものね」
 ベロリンガはリオルが背負うリュックに差し込まれたピッケルに注目する。
 この樹海のどこかには巨大な金の鉱脈が眠っている――。そんな根も葉もない噂を聞き付けて樹海へと探しに入って来る物好きが一定数いることを彼はよく知っていた。この二匹も彼らの一部と見て間違いないようである。
 最後に見たのは春先だったっけ。彼は自身をトレジャーハンターと名乗って憚らない、頭と両腕から葉っぱを生やした草色のトカゲのポケモンに出会った時のことを思い出す。三日三晩、寝る間も惜しんで樹海の洞窟を探検して回った挙句、何の成果も得られずに迷っていた所を見掛けて自宅に招待したのだった。
 目的は言わずもがな。冬眠を終えて腹ペコだった時期のことである。招き入れた直後に押し倒して全身を舐めしゃぶり、貪欲な心の赴くまま喰らって養分にしたのだった。
 我ながら危険な賭けに出たものだ。隙を見せる瞬間を待ち切れずに仕掛けたんだっけ。彼は今や果樹園の土の一部と化した当時の獲物が眠る方をチラと見遣る。恥ずかしそうにするばかりで抵抗もすることなく目を回してくれたのが幸いだった。
 そこまでを思い出した彼は説教の締め括りに差し掛かる。
「だけど……ここはそんな軽い気持ちで、ましてや君達みたいな子供が事もあろうに子供同士で足を運んで良い場所なんかじゃないんだ。これに懲りたらもう二度とこんな馬鹿な真似をしてはいけないよ。分かったね?」
 説教の終わりで相手の顔を交互に覗き込むと、二匹はシュンとした様子で小さく首を縦に振って見せる。それから間もなくして、
「はい、ごめんなさい……」
「ぼ、僕もごめんなさい……」
 それぞれ消え入りそうな声で謝罪の言葉を述べて来るのだった。そんな二匹の反応に彼は満足そうにして見せる。
「うんうん、分かればよろしい!」
 説教を受け終えたロコンは傍らに立つリオルに体の正面を向ける。
「……ブルース、いつも冒険に誘ってくれるのは嬉しいけど、今度からは私達の身の丈に合った場所にしておきましょう、ね?」
「ごめんよ、コユキ。もう絶対に怖い思いはさせないから……」
 言い終えるなりロコンを力強く抱きしめたリオルの目から一筋の涙が零れ落ちる。
「……うん、私も気を付けるわ、ブルース」
 そこでロコンもリオルの背中に前足を回し、両者は抱き合う形になる。
 お説教を垂れた甲斐があったというものだよ。そんな二匹の様子を見つめつつ、彼はしみじみと思うのだった。
 言うべきことは言ったことだし、そろそろお引き取り願うとしよう。お互いが抱擁を解いたタイミングで彼は二匹に背を向けて歩き始める。
「さぁ、お帰りはこちらだよ。オイラについて来て!」
 そう言って案内した先は意外にも果樹園の北端に位置する断崖だった。驚いた表情の二匹に彼は断崖の一画を指し示して見せる。
「……あすこだけど分かるかい? あの部分だけ崖が階段状になっていてね、そこを伝って下りていけるようになっているんだ。身軽な君達なら難なく踏破できると思うよ」
 一見した限りでは気付くのが難しい抜け道だったが、なるほど、改めて観察すると確かに彼の言う通りであった。説明を受けた二匹の顔に納得の表情が浮かぶ。
「ちなみに崖を下り切った先は、アイツが引き返して行った山道のちょうど裏側さ。君達によほど運がない限り、二度とアイツに遭遇しないで森を脱出できる筈だよ。……さぁ、行って! アイツが引き返してくるかも知れない!」
 言い終えるタイミングでベロリンガは二匹の背中を軽く叩く。促されるまま下り口に向かって駆けて行った二匹であったが、いざ崖を下り始める寸前になって振り返り、
「あの! このお礼はいつか絶対に!」
「……わっ、私も! この御恩は一生忘れません!」
 リオル、そしてロコンの順で声高らかに宣言するのだった。少し恥ずかしい気持ちになってしまった彼は慌てて手を左右に振るって否定する。
「いいよ、そんなの気にしなくって! もうオイラには構わなくて良いから早くお行き! さっきの繰り返しになるけど、ここは子供の君達には危険すぎる場所なんだ。その気持ちが本当にあるのなら、せいぜい大きくなってから会いにおいで! いいかい、オイラとの約束だよ!」
 その危険にはオイラもバッチリ含まれるからね。さもないと君達自身がお礼の食べ物になっちゃうよ! 彼は心の中で付け加えるのだった。
「はい! きっと立派なキュウコンになってお礼にあがります!」
「ありがとうございました! 僕も進化した折には必ず!」
 二匹は回れ右をして今度こそ崖を下って行く。岩から岩へ軽快なステップで次々に飛び移りながら順調に下りて行き、瞬く間に崖の下へと辿り着いてしまうのだった。
「……ちゃんと二匹で行動している点は評価できるね。どこかの間抜けなカップルも見習って欲しいものだよ」
 ベロリンガは樹海の底を歩き始めた二匹の背中を見つめながら呟く。間もなくして彼らの姿は木々の間に紛れて見えなくなってしまうのだった。
 さて、今度はこっちの二匹を見送ってあげなきゃ。彼は踵を返して肥溜めの前まで戻って行く。
「……おえっ、ここまで漂って来たよ。君達ちょっとラブラブ過ぎやしないかい?」
 穴の正面に立った彼は鼻先を手で扇ぎながら気分悪そうに舌を垂らす。穴底に充満していた臭気が風に乗っかって顔にぶつかって来たのだった。
「これ以上も臭い仲をアピールされたらオイラ焼き餅焼いちゃいそうだから、そろそろ愛の巣に入れてあげるね。……眺めなら見ての通り、この森で最高のロケーションさ」
 彼は地平線の彼方まで広がる樹海へと視線を移す。彼の言う通り、ここは樹海のど真ん中において樹海を一望することが可能な貴重な場所であった。
 穴底の二匹に語った後、彼は肥溜めを埋め立てに掛かる。その大きな足で辺りの土を寄せ集めて穴に落として行けば早く済みそうな作業ではあったが、何となく気が引けてしまった彼は、あまり器用とは言えない両手で少しずつ周りの土を掬っては二匹に掛けて行くのだった。
「うーん、埋めるのが勿体なくなって来ちゃった!」
 徐々に土の中へと姿を消して行く自身の作品に名残惜しさを感じながらも土を掛け続けて行き、やがて完全に穴を埋めてしまう。仕上げにペタペタと土を貼り付けて行って膝くらいの高さの土饅頭を作れば完成だった。
「ふぅ! これでよし、と!」
 顔中の脂汗を舌で拭い去り、両手に付着した土を払い落として作業を終える。炎天下での一仕事を終えて気になったのは自身の体の様子だった。
「ひゃぁ、汗だくになっちゃったよ。おまけに何だか臭うぞ……?」
 二匹を完全に埋葬した今となっては隠れようのない臭気だった。自身の胸やら腕に鼻孔を近付けてクンクンやり始めた彼であったが、じっとりと蒸れた脇の下に顔を埋め掛けた瞬間、彼は挙げていた両手を我慢できずに下ろしてしまう。
「んあっ、臭い……。あーあ、たった数日サボっただけでこれだよ。もう一週間は持つと思っていたんだけどなぁ……」
 ここ長らく汗塗れの毎日を送っていた彼の口から恐ろしい発言が漏れる。極めて怠惰な性格をした彼は、こんな時期であるにもかかわらず、毎日の入浴を面倒がって汗臭い体のまま放置していたのだった。おまけに二夜連続のご馳走で格段に分泌が増えた皮脂も垢と一緒に溜まりに溜まり、ヌルヌルした脂の膜で体全体がテカって見えるのは勿論のこと、今や彼の全身は少し黄ばんで見える程となっていた。
 もはや考える余地などなさそうなものだったが、彼は腕組みをして何秒か思案した後、
「……よし。嫌な汗もかいちゃったことだし、スッキリして行こうっと!」
 長い舌を伸ばして全身を舐め回し始める。唾液の消化酵素で汚れを角質層ごと溶かして舐め取ってしまう、水を一滴も使わない彼ら独特の入浴方法だった。
 瞬く間に自身の丸い頭を舐め尽くしてしまった彼は、上から下の順番を意識しながら他の部分へと舌を這わせて行く。首周り、背中、脇の下、腿の付け根、尻尾の折り畳まれた部分など、特に汚れが溜まりやすい部分は時間を掛けて丁寧に、分厚く脂肪が巻いて出来た皺の谷間は舌先で一つ一つ広げて行き、体中の垢を残さず舐め尽してしまう。身長の二倍もある舌を持つ彼に、自分の体で舐められない部分などないのだった。
 爪先まで舐め尽くしてしまった彼は、今度は下から上に、それまでとは真逆の順番で舐め回して行き、しょっぱく感じる部分が少しでも残っていないか確かめて行く。頭の天辺まで舐め終え、そのような部分が一切ないことを確認した彼は満足げに舌を口の中に戻して崖の際まで歩いて行く。そして、入浴開始から飲み込まないで溜めていた唾液を舌の上で器用に練り上げて一纏めにし――
「……んべぇっ!」
 崖の底を目掛け、舐め尽くした全身の汚れが詰まった脂っぽい塊を勢い良く吐き出すのだった。吐き出した塊が放物線を描いて落ちて行き、突き出た岩肌にベチャリと音を立てて衝突すると、さながらヘドロ爆弾でも炸裂したかのような真っ黒いシミが放射状に刻まれる。よくよく断崖の岩肌に目を凝らせば、他にも同様のシミがいくつかあるのが見て取れたが、昨晩が大雨だったことから察するに、いったん付着すると落ちるのは中々に困難な代物であるらしい。
「あぁ、気分爽快! さっぱりしたなぁ!」
 入浴を終え、剥きたてのゆで卵のようなツルツルの肌を手に入れたベロリンガは歓声を上げる。全身を唾液塗れにして気分爽快というのは、きっと彼らにしか理解できない感覚に違いなかった。
「……今更だけど、まさか君達が新婚ほやほやのカップルだったとはねぇ。野生の掟とは言え、オイラも罪深いことをしちゃったなぁ」
 入浴を終えて戻って来た彼は二匹を食した瞬間をしみじみと思い出す。
「……その、何だい。幸せの絶頂からどん底に落っこちちゃったワケだから、君達も色々と恨み辛みはあるだろうけど、まぁ、ここは一つ安らかに眠りなよ。最後になっちゃったけど、間違っても化けて出るのだけは勘弁してね? オイラお化けは大の苦手なんだ」
 最後の挨拶を述べた後、彼は二匹に背を向けて元来た道を戻り始める。山道に差し掛かる寸前で振り返り、
「それじゃ、末永くお幸せに!」
 土饅頭に向かって笑顔で手を振りつつ、彼なりに二匹の冥福を祈ってやるのだった。
「はぁ……それにしても二割増しだなんて……。オイラこれからどうやって生きて行けば良いんだろう……?」
 笑顔でいられたのはそれまでだった。果樹園を後にした途端、彼は厳しい現実に引き戻されてしまう。名案など浮かぶ筈もなかった。無理難題を前に、彼は徐々に行き場のない感情を募らせて行く。
「あぁ、ムシャクシャする……!」
 この鬱憤をどうやって晴らしてくれよう? 捌け口を求め始めた彼は進路上に手頃なサイズの小石が転がっているのを見付けてしまう。
 打ってつけだ。遠くまで弾き飛ばしちゃえ。助走をつけて急接近し、大きく後ろに振り上げた右足の固い爪先でジャストミートする。それが地面から突き出た岩の一部に過ぎないことに、その時まで彼は気付けなかったのだった。
「あっ」
 まさに蹴り飛ばしたのは氷山の一角。思い込みがあっただけに反動は大きく、彼の体はつんのめって倒れ始める。
 グシャリ。
 まさに泣き面にスピアー。彼はビンタされたばかりの顔面から地面に激突してしまうのだった。
「いっ、いちちちっ……!」
 痛みは言うまでもなかった。彼は打ち付けた顔面を両手で覆う。
 本当にツイていない。この二日間で運を使い果たしてしまったとでも言うのだろうか。心の中で嘆きつつ、顔の真横の地面に両手を突いて起き上がろうとした――次の瞬間だった。
「へっ?」
 彼の口から間の抜けた声が漏れる。それもその筈、意図しないのに体がでんぐり返り始めたのだった。
「え……ちょっと、何がどうなって……!?」
 あたふたし始める頃には天と地が入れ替わっていた。瞬く間に一回転するも勢いは衰えず、そのまま二回転、そして三回転目へと突入して行く。たっぷりと養分を蓄えて限りなく球に近い体となったことが災いし、ほんの軽い弾みから下り坂を転がり始めてしまったのだった。
「いてっ、あたっ! いたたっ!」
 よりによって、そこは最後に登り切ったデコボコ道だった。そこら中に転がる石に全身を打ち付けつつ、彼は大きく跳ね回りながら斜面を転がって行く。通過には数秒と掛からなかったが、その間に彼が受けた苦痛は計り知れないものがあった。
「ちょ……ちょっと待って、この先って……!」
 でんぐり返りを続けていた彼の顔から血の気が失せる。元来た道を転げ落ちて行く彼を次に待ち受けるのは片側が崖に面した急カーブ。差し掛かるまでに止まれなかったが最後――死あるのみだった。
「だっ、誰か止めてぇぇぇっ!」
 助けを求めるも現実は無情だった。気持ちに反して回転の速度は増して行き、全速力で走る数倍のスピードで崖へと吸い寄せられて行く。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
 絶壁を目の前にして絶叫するベロリンガ。脂身の多い挽き肉になるまで残り数秒と迫った瞬間だった。
 落ちたくない! その一心で崖の反対方向へ反射的に体を捩った彼だったが、果たして起死回生の一手となる。動きに呼応して曲がって行き、危うく崖の縁をなぞりながらも何とか突破することが出来たのだった。
「曲がり……切れた……!? た、助かった……!」
 最大の難所を後にした彼は驚きと安堵の感情を漏らす。
 なぁんだ、簡単に曲がれるじゃないか! その後に続く緩やかなカーブを順調に下り始めた彼は心の中で思う。一度コツを掴んでしまえば楽なもので、危険な地形も障害物もスラローム走行で躱しながら颯爽と山道を下りて行くのだった。
 心に余裕が生まれた彼は不思議な感覚に気付き始める。凄まじい勢いで視界全体が回り続けているにもかかわらず、周囲の状況は自然と頭の中に入って来ており、気持ち悪くなる感覚も特に抱かない。彼は思わぬ形で隠された能力を発掘したのだった。
「……知らなかった。オイラって転がり続けても目が回らない体質だったんだね。目からウロコだよ」
 歩くのが億劫だった彼が今後は積極的に転がって移動することを決めたのは言うまでもない話だった。デブになるのも悪い事ばかりじゃない。この体型を維持できるように頑張ろう。彼は強く思うのだった。
 もっとスピードを出せないだろうか。焦りと恐怖を爽快感に変えた彼が次に求めたのはスリルと興奮だった。その方法を考え始めた彼の頭に名案が閃く。
 まるくなるを使えば良いのだ! 転がるのに適した体になることで更に加速できる筈、デブになったことも相俟って高い効果が見込めるに違いない――。思い立った彼は即座に行動へと移す。両手両足を小さく折り畳み、大きな尻尾を背中に密着させ、首を引っ込めれば完璧だった。その瞬間に彼は桃色の大玉と見分けが付かなくなってしまう。
 効果は抜群だった。空気抵抗と摩擦を極限まで減らすことに成功した彼はグングンと加速して行き、土煙を上げながら目にも留まらぬ速度で山道を下り始める。
「イィーヤッホゥ!」
 スピードが上がればテンションも上がった。すっかり有頂天になった彼の口から歓声が上がる。地面の感触、全身に感じる風、流れて行く景色の何もかもが彼の感情を極限まで高揚させた。
 もっと転がり続けられたら良いのに! 願って止まない彼であったが、お楽しみは次に果樹園を訪れた時までのお預けだった。突然の事態に慌ててしまった時間が長引いたこともあって、既に殆ど山を下り終えていたのだった。
 さて、そろそろ止まる準備をしなくちゃ。そう思った次の瞬間、彼は大きな疑問に直面する。
「……止まる時はどうすれば良いんだっけ?」
 思わず口走るも、答えを見出せないまま刻一刻と登山口まで近付いて行ってしまうベロリンガ。最後の直線に差し掛かる頃、彼の不安と焦りは頂点に達する。
 このままでは危険だ。ベロリンガは体を硬くする。下りた先は大小様々の樹木が林立する森の中。転がる方向を多少は制御できるようになったとは言え、衝突事故の一つや二つは起こっても不思議ではない場所だった。
「えぇい、こうなったら……!」
 どんな障害物だろうと避けて避けまくってやる! 下り切った先に広がるのは平らな地形、転がり続ける内に自然と速度を失って止まる筈だ! どうしようもない状況を目の前に、彼は開き直りながらも覚悟を決める。
 まずは登山口の正面を塞ぐ黒っぽい大岩だった。これを躱さずして先へは進めない。右か左か。どちらに避けるのが得策か、彼は前方に全ての神経を集中させて吟味し始める。
「……よし、左だ!」
 避けた先に見える木の本数から判断した後、彼は迷うことなく決定を行動に移す。……が、そんな彼の目論見は初っ端から頓挫してしまう。どれだけ体を捻ってみても先程までの数分の一しか曲がらないのだった。スピードを出し過ぎるあまり、グリップが効かなくなってしまったのである。
「えっ?」
 異常に気が付いて思わず声を上げたのは何もかもが手遅れになってしまった後だった。山道の少し右側を走っていた不運も重なり、彼は大岩に真正面から衝突しに行ってしまう。
「……ひっ、ひいぃぃぃぃぃっ! ぶつかるぅぅぅっ!」
 もう駄目だ! どう足掻いたって避けられっこない! 衝突の直前、彼は両方の目を固く閉じ、衝撃に備えるべく両手を頭の上に乗せる。
 そして、衝突の瞬間。何か硬い物が粉微塵に砕け散る音を耳にし、全身を押し潰されるかのような凄まじい衝撃に晒された彼が意識を保っていられたのは――そこまでだった。
18/05/23 14:01更新 / こまいぬ
戻る 次へ

TOP | 感想 | RSS

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b