連載小説
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シーン8
 狭い、息苦しい、蒸し暑い、気持ち悪い、そして何よりも――臭い。落とし穴に嵌ったブラッキーが行き着いたのは、この世のありとある不快感をかき集めて煮詰めたような空間だった。唾液とは比べ物にならない程に流動性の低い粘液で覆われ尽くした分厚いゴム質の胃袋には、持ち主の体臭はもちろん、溶かされて行った獲物達の体臭も濃厚に染み付いており、それに干した木の実の甘ったるい匂いと芳醇なお茶の香りとが加わって、中は嗅ぐだけで頭がおかしくなりそうな臭いで満たされていた。
 痺れさせる成分の含有量も唾液の比ではないらしい。何とか持ちこたえて来たものの、ここに来てから急速に麻痺が進行してしまう。今や首から下の感覚が殆ど失われ、ブニブニと弾力のある胃壁に全身を隙間なく包まれてしまった彼は、もはや自分の意思ではピクリとも体を動かせない状態となっていた。体だけではない。異常な睡魔に襲われ始めた彼の瞼は何度も落ち掛け、少しでも気を抜けば失神するレベルにまで達していた。
 空気も悪い。真っ暗闇であるにもかかわらず、視界には焚かれたフラッシュのような光球が何度も現れては消えていく。どうやら酸欠でダウンするのも時間の問題のようだ。
 どうすりゃいいんだ。痺れる頭で必死に答えを探し始めた瞬間、彼は鼻孔からサラサラとした液体が漏れ落ちて行く感覚に気が付く。鉄の臭い、鼻血だった。
 今まで数回も出した記憶のないものが何故このタイミングで――。突然の出来事に驚いたブラッキーであったが、その答えはすぐに見つかった。
 無理矢理に飲まされたベロリンガの唾液だった。触れると痺れる唾液が体内に入って何も起こらない訳がなかった。時間が経ち、今になって暴れ始めたのだ――。
 彼の推測は正解だった。唾液の麻痺させる成分の正体は消化酵素。皮膚に付着した場合はかぶれる程度で済むが、体内に入って吸収されると出血性の毒素として作用する性質を持っていた。少量ならば代謝で無害化されるが、大量に摂取してしまった場合は――処理が追い付かず、体を内側から溶かされて死に至ることもある危険な成分だった。ベロリンガが唾液を飲ませたのは、二夜連続の御馳走で胃腸に掛かる負担を少しでも軽減する意図があってのことだったのである。
 世間のベロリンガ達もこの性質をよく知っているようで、消化する力の弱い子供や年配の仲間のための獲物は、舐め回して痺れさせるのと並行して唾液をお腹いっぱい飲ませ、体内がグズグズに溶けるのを待ってから食べさせるのが習慣だった。獲物にとって唯一の救いがあるとすれば、そうなる頃には既に全身のあらゆる部分が麻痺し切っており、一切の苦しみを感じずに済むということだった。
 鼻血の勢いは増して行き、咥えさせられたリンゴの表面を伝い、滝のような流れになって落ちて行く。このままではまずい。早く止血しなくては。そう思うも前足の感覚は既にゼロ。流れるままにする以外の方法はなかった。その事実を受け入れた瞬間、彼は一つの結論を見出す。
 どうやら自分はここまでらしい。情けなくも鼻血が直接の死因になってしまいそうだ――。己の死期を悟ったブラッキーの顔に浮かんだのは、意外にも笑みだった。もはや生に執着するのは無意味だ。いかにして価値ある最期にするか、今はそれだけを考えよう。彼はある種の悟りの境地に達するのだった。
 このまま終わってなるものか、意地でも一矢報いて死に花を咲かせてくれる――。腹を括ってしまえば自然と気持ちも落ち着いた。徐々に意識が薄れゆく中、彼は最終兵器の始動ボタンを押す覚悟を決める。
 技の名は、どくどく。意外にも彼は有毒の、もとい有毒になれるポケモンだった。緊急時には全身の汗腺から毒素の混じった汗を分泌し、危害を加えようとした相手を返り討ちにしてしまえるのである。その毒性は極めて強力、猛毒と言って差し支えないレベルの代物だった。少しでも目に入ろうものなら失明は免れられず、仮に相手の胃袋の中で発動しようものなら――それは体内で爆弾を起爆させるにも等しい行為だった。瞬く間に粘膜から吸収されて全身に行き渡り、生きたまま全身を引き裂かれるかのような地獄の苦しみを味わった挙句、数分と持たずにショック死する他になかった。
 もっと早い段階で使わなかったのは、その大き過ぎる代償のため。経絡を総動員して繰り出す渾身の一撃である性質上、身体への負担は極めて重く、発動後に動けなくなるのはもちろん、運が悪ければ死亡する可能性すらある禁断の技だった。上手く決まらなかった場合を恐れ、今の今まで使わずに来てしまったのである。
 もう、その心配をする必要はない。ブラッキーは迷うことなく全身の表面に、汗腺の一本一本に全神経を集中させ始める。引き金は怒りの気持ち。今の彼に不足する筈もない感情だった。
 愛する妻を奪った罪、死んで償うがいい。貴様も道連れだ……! 狂気に満ちた笑みを顔いっぱいに浮かべ、ブラッキーは全てのエネルギーを解き放つ。その瞬間、彼の汗腺の一本一本から真っ黒いベタベタした油のような液体が噴き出し、その全てが胃袋の内側にへばり付いて行った。
 これでいい――。彼は満足した様子で静かに目を閉じる。
 サーニャ、今そっちに行くよ。二度と覚めることのない眠りへと誘われる直前、彼の脳裏に浮かんだのは愛する者の笑顔だった。
17/12/21 22:20更新 / こまいぬ
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