連載小説
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シーン5
 もはや足腰は全く立たなかった。ブラッキーは全身をくねらせながら床の上を這って行く。全身全霊を掛けて体を動かすも、その速さは普通に歩く速さの数分の一にも満たず、這った跡が長々と残るその様は、さながらヌメラの歩みだった。
「くそ、頭が……。視界が……ふらつく……」
 ベロリンガの言う麻痺が脳に達しつつあるのだろうか。頭がボーッとして思考がうまく纏まらない。視界も揺らいで見える上、目線が少しでも動くと残像が焼き付いて中々に離れてくれない。その感覚は、成年したポケモンだけが飲むことを許される、木の実のジュースを樽の中で発酵、熟成させて作られる風味豊かな飲み物をしこたま呷った後のそれと酷似していた。
 その感覚は動けば動く程に悪化の一途を辿るように感じられたが、彼は移動するのを止める訳には行かなかった。一歩でも立ち止まろうものなら底なしの絶望に引き込まれてしまうのである。
 自分が生き延びることは無論のこと、だが、何よりも――。ブラッキーは合わない焦点を気力で合わせつつ前方を見据える。
 何としても妻を見つけ出して守らねば。そして、この危険なポケモンについて皆に知らしめねば。街のギルドには討伐隊の派遣を依頼しよう。野生で暮らすポケモンには原則として干渉しない不文律があるにはあったが、そんなものは金を積みさえすればどうにでもなる話だった。
 徐々に出口が近付いて来るも、洞窟の外は相変わらずの激しい雷雨だった。雷に打たれる確率は決して低くないだろう。土砂災害に巻き込まれる憂き目に遭うリスクも呑まねばなるまい。だが、この下品な山椒魚の汚い腹の底で溶かされて養分に変えられることに比べれば、両者は彼にとって十二分に受け入れる価値のある最期だった。
「あと少しで……出口……!」
 体力の消費は全速力で走る時のそれと何ら変わりなかった。息を切らしたブラッキーが絞り出したような声で呟く。
 外に出ることは逃亡劇の始まりに過ぎなかったが、彼にとっては全てのようなものだった。外は真っ黒い体色の自分が溶け込んでしまえる漆黒の暗夜、おまけに這った跡や匂いは大雨で洗い流され追跡も不可能、外に出るだけで圧倒的な地の利を得ることが出来るのだ。これらに加えて心理的な要因も作用するだろう。すなわち、たった一食を得るために身を危険に晒すか否か。雷に当たって死に、荒れ狂う大地に押し潰されて死ぬ確率は相手も同じ。外に出た瞬間に奴は両者を天秤に掛ける必要に迫られるのだ。
 ここまでの悪条件下で追跡するか? 自分が奴だったとしても結論は一つだった。
「答えはノー、だ。ふふっ、ははは……!」
 自問自答しながらブラッキーは高笑いするのだった。
 コツリ。
 その直後だった。少なくともブラッキーの目にはそう映ったのだが――天井から赤く透き通った大きなビー玉のようなものが落ちて来て、乾いた音を立てて目の前の床の上に転がる。
 天井の一部でも崩れたのだろう。このまま崩落にでも巻き込まれて死んでしまえばいいさ。落下物にしては不自然な代物だったが、そう思い込んだブラッキーは気に留めずに前へ進み続ける。
 が、その直後、彼は立て続けに奇怪な現象に見舞われる。焚き火の炎の光で明るかった筈の周囲が急に暗くなったのである。それは何か大きな物体の影が自分に覆い被さって来たかのようだった。
「……幻覚だ。気にするな!」
 一瞬だけ足が竦んでしまう彼であったが、自分自身に言い聞かせて再び前に進み始める。が、それから僅か数秒後、
「……おーい」
 聞き覚えのある間延びした声が真後ろから突き刺さって来る。
「……げ、幻聴だ! これは幻聴なんだ!」
 両前足で頭を抱えながら何度も首を左右させて疑念を振り払おうとするブラッキー。ベロリンガの唾液塗れの顔に冷や汗が伝い、ブルブルと全身が震え始める。
 続いて背後から聞こえて来たのは特大の溜め息の音だった。
「……もしもーし。気持ちは分からないでもないけどさ。もういい加減、気付いてないフリするのは止めにしてくれる?」
 今度こそ、幻聴ではなかった。完全に体の動きを止めたブラッキーが十五度刻みで首を後ろ向ける。果たして彼の真後ろには、混乱させた筈のベロリンガが仁王立ちで控えているのだった。その姿を目にした途端、ブラッキーは仰向けにひっくり返ってしまう。
「そんな、どうして……!? こんな短時間で混乱が解ける筈が……!」
 その言葉にベロリンガは少し思案する様子を見せた後、こう切り出して来る。
「……んー、それは違うかな。実を言うと、オイラ技が掛かったフリをしていただけなんだ」
 ブラッキーは空いた口が塞がらなかった。
「ば……馬鹿な……! そんな話がある筈が……」
 自身や仲間達を幾度となく窮地から救い出して来た百戦錬磨の技が破られた――。にわかに信じがたい言葉にブラッキーは動揺を隠せない。一方のベロリンガは肩をすくめて両手のひらを上向けて見せる。
「あるんだよねぇ、それが。オイラって限りなくマイペースな生き物だからね。ちょっとやそっとのことじゃ心を乱されないのさ!」
 言葉の最後でベロリンガは大きく胸を張り、更にこう続ける。
「……って言ったら格好良く聞こえちゃうよね。まぁ、ぶっちゃけた話、美味しい食べ物のことでもない限り、そもそも常日頃からそんなに複雑なことを考えて過ごしているワケでもないオイラを混乱させようなんて無理があるのさ。というワケで今回も残念でした!」
 完敗だった。こんな能天気で鈍感な奴に通じる技ではなかったのだ――。ブラッキーは項垂れてしまう。
「いやぁ、それにしてもピッタリくっ付いて歩いて行ったのに、全然気が付かなかったね、君! お陰で色々と面白いもの見せて貰ったよ! 答えはノー、だ。ふふっ、ははは……! ……なーんて、いきなり言い出すものだから、吹き出すかと思ったよ! あははっ!」
 声真似を交えつつ、ベロリンガは両手でお腹を抱えて大笑いし始める。
 全て聞かれていたのだ。ブラッキーは一層に深く頭を垂れる他になかった。
「……ああ、ごめんよ! ところで、君の近くに転がっているそれ、見覚えないかい? さっきオイラが目の前に転がしたけど気付かなかったでしょ?」
 一頻り笑い終えた後、ベロリンガはブラッキーの傍らに転がる赤い宝石を指差して見せる。天井から落ちて来たのではなく、やはりベロリンガが背後から放り投げていたのだった。
 下を向いていたブラッキーの注目が宝石に向かう。ぼんやりとした様子で何秒か見つめた後、彼は血相を変えて宝石を拾い上げる。
「こっ、これはっ……! どっ、どうしてこんなものがここに……!?」
 今にも落としそうな震える両前足で顔の真正面に掲げつつ、ブラッキーは動揺し切った声で叫ぶ。その様子にベロリンガは含み笑いを隠すことができない。
「ふふ……! どうしてだろうねぇ!」
 言いながらベロリンガは舌なめずりして見せる。その様子を宝石越しに見たブラッキーの頭に最悪のシナリオが浮かぶ。
 コツリ。
 極限まで震えが増した両前足の間から宝石が滑り落ち、乾いた音を立てて目の前の床の上に転がる。
「お、お前……! まっ、まさか……!」
 ブラッキーは片方の前足でベロリンガを指し示しつつ、戦慄し切った声で尋ねる。
 ここまで来れば真面目に答えるのは野暮というものだった。質問に答える代わりにベロリンガは大きなお腹を無言でさすって見せる。
「ああ、何てこと……!」
 全てを悟ったブラッキーは大きく息を飲み、両前脚をいっぱいにベロリンガの腹部に回してしがみ付く。
「……だ、だっ、出せ! 今すぐに!」
 パニックに陥ったブラッキーが絶叫する。
「そう来ると思ったよ。お安い御用さ。ちょっとだけ待っててくれる?」
 間に合っていないにも程があるものの、何故かベロリンガは快諾する。彼はブラッキーの体を両手で挟み込んで持ち上げて床に座らせ、その場でクルリと回れ右をして大きな尻尾を正面に向ける。そして、グイと腰を後ろに突き出して踏ん張る姿勢になり、はち切れんばかりに脂肪が付いた大きなお尻をブラッキーの顔面にぶりぶりと押し付ける。
「……んんっ、出るぅ!」
 ベロリンガの下腹部が大きく波打ち、うんと尻尾が高く持ち上がったと思った次の瞬間――
 ブビィィィィッッ!
 特大の湿ったオナラがブラッキーの顔面にぶっ掛けられる。音、量は言うまでもなく、臭気は辺り一帯の空気を黄ばませる程の強烈な一発だった。彼が出すと言ったのは、昨晩に食したブラッキーの妻が消化吸収されて行く中で発生したガスの話だったのである。
「むはぁ、スッキリした……!」
 お腹の膨満感から解放されたベロリンガの口から舌がだらしなく垂れ、恍惚の表情が顔いっぱいに浮かべられる。
「……惜しかったね。もうすっかりウンチになっちゃった後だよ。あと一日早けりゃ吐き出してあげられたんだけどなぁ」
 背後を振り返りつつベロリンガは残念そうに言って見せる。その視線の先には風圧と臭気のダブルパンチで完全にノックアウトされ、仰向けの状態でビクビクと全身を痙攣させるブラッキーの姿があった。
「どうだい、久々に嗅ぐ大好きなお嫁さんの香りは? 何たって、この最高に蒸し暑い中でギトギトの脂汗に塗れるオイラのお腹の中で丸一日も熟成されているからねぇ。いつまでも嗅いでいたくなっちゃうアロマでしょ?」
 炎天下の真夏のゴミ捨て場に丸一日も放置された生ゴミの末路を知る者なら、その臭気は想像するに容易い筈だった。しかしながら、ベロリンガは自分の発する臭いには相当に鈍感らしく、特に気にする様子を見せなかった。
「……そうだ。匂いと言えば君のお嫁さん、確か香水を付けていたっけ。オシャレのつもりだったんだろうけど、あんなの自分はここにいるから食べに来て下さいって触れて回っているようなものだったよ。いやぁ、今思えば楽な獲物だったね。まぁ、君も良い勝負していると思うけど、あははっ!」
 お尻からプスプスと残り香を振り撒きながら回れ右をして、彼は再びブラッキーと向かい合う。
「おやっ……?」
 振り返った直後、ベロリンガは驚きの声を上げる。
 仰向けに倒れるブラッキーを凝視すれば、さながらシャワーズのように泡を吐きながら白目を剥いて完全に気絶していたのだった。あまりにも滑稽が過ぎるその光景に、ベロリンガは吹き出さずにいられない。
「君ったら薄情者だねぇ! 愛するお嫁さんの匂いで気を失っちゃうなんてさ!」
 言いながらベロリンガはブラッキーの二本の後ろ脚に両手で組み付いてブイの字に開き、その谷底に大きな足を乗っけて振動を付けながらグリグリと踏みにじり始める。
「おーい、朝だから起きなよー、っと。夜だけどね、あははっ!」
 気付け薬の代わりに電気アンマを食らわされたブラッキーは、たちまちに絶叫し、水揚げされたコイキングのように跳ね回り始める。
「おはよう、寝坊助くん! 良いお目覚めかい?」
 気を取り戻した後もベロリンガは容赦なく振動を与え続ける。事態を把握したブラッキーが止めるよう懇願するまで、果たして彼の踏み付け攻撃は続いてしまうのだった。
「あっ……ああ……!」
 ベロリンガの両手と足が離れた後も残酷な余韻がブラッキーを苦しめた。しばらくの間、彼は終末にでも直面したかのような表情を顔いっぱいに浮かべ、両前足を後ろ脚の付け根に当てがいつつ、右へ左へと忙しそうに転がり続けるのだった。
「……ごめんよ。ちょっと強くやり過ぎちゃったね。そこは素直に謝るよ」
 流石に気の毒に思ったベロリンガは片手でポリポリと頭を掻きつつ、ペコリと一礼して見せるのだった。
 間もなくして後ろ脚の付け根の疼きは治まるも、意識が回復した彼が戻って来たのは愛する者が失われた文字通りの現世の地獄だった。力なく仰向けに倒れながら何もない宙を眺める彼の両頬を幾筋もの涙が伝い、そして落ちて行く。
「ああ、サーニャ……。嘘だと言っておくれ。どうして君がこんな目に……」
 あまり見ていたくない光景だった。ベロリンガはブラッキーから視線を逸らす。
 それにしても――あの子そんな名前だったのか。こうして目の前の彼が口にしなかったら、恐らくは永遠に知る由もなかった名前だったに違いない。ベロリンガは思った。
「……君が忘れ物に気が付いた時に一緒に取りに戻ってあげていれば、こんなことにならなかった。一緒に戻るのを断られた時に引き下がらないで君の背中を追い掛けていれば……君は食べられずに済んだ……! ああ! くそっ、くそっ、くそぉっ! こんな奴に……こんな奴なんかに……!」
 嘆きは徐々にすすり泣く声へと変わって行った。
 これで彼の妻が昨日に一匹で森の中を歩いていた理由も明らかとなった。本来なら最初から最後まで二匹で一緒に移動する筈だったのだ。
 これは悔やんでも悔み切れないだろうな。食べた側でありながらベロリンガはそんなことを思う。確かに彼の言う通り、夫婦揃って移動していたのなら、自分は返り討ちを恐れて一切の手出しをしないで終わっていたに違いなかった。目の前の彼であるが、実に運に恵まれない男だったのだ。
 いつまでも嘆きは尽きそうになかったが、これ以上も聞き続けるのは不味い。情が移って色々とやりにくくなってしまう――。そう判断したベロリンガは身を乗り出してブラッキーの顔を覗き込む。
「……悪かったね、こんな奴なんかで。オイラがもう少し格好良いイケメンのポケモンだったら許して貰えたかい?」
 やさぐれた口調で悪態を吐きつつ、彼は更に続ける。
「偶然だったとはいえ、あまりにも残酷な話だから君には最後まで明かさないでおくつもりだったんだ。だけど……大一番を前にして逃げ出しちゃうような臆病者の君にそこまで気を遣ってあげる必要もないと思ってね。喋っちゃうことに決めたんだ」
 相変わらず自分から騙し討ちを掛けたことは棚上げしつつ、彼は身勝手も甚だしい理屈を展開するのだった。
「ち……畜生が……!」
 首をもたげたブラッキーがベロリンガの顔を真っ直ぐに睨む。それは彼が今までに見せて来た中で、最も憎しみに満ちた表情だった。
「好きに言うが良いさ。……ここは食うか食われるかの野生の世界。そんな世界でオイラは食べて食べまくって今日この日まで命を繋いで来たんだ。今さら君に何を言われようが何とも思わないよ」
 罵り言葉をバッサリと斬り捨てた後、ベロリンガは一歩ずつブラッキーとの距離を縮めて行く。
「……ところで、君。悲しんでいる最中で本当に申し訳ないんだけど……オイラと交わした約束、忘れていないかい? オイラとの勝負を放棄して逃げ出そうとした場合……どうなっちゃうんだっけ?」
 ニタニタとした笑いを浮かべつつ、ベロリンガは言葉の最後で首を傾げて見せる。
「くっ……来るな! 俺に近寄るなっ! おっ、お前みたいな化け物と交わした約束なんか最初から無効だ!」
 知らないと言わない辺り、約束を交わした自覚はあるにはあるらしい。ブラッキーは腰を床に着けたまま、洞窟の出口の方へ方へと後退して行く。そんな彼の言葉に悲しみを感じたベロリンガは、どこか憐れむような目付きでブラッキーを見下ろす。
「……あーあ、今まで必死こいて生きて来ただけで化け物呼ばわりされちゃうんだ、オイラ。何もかも否定されちゃった気分だなぁ」
 そこで大きく息を吐いたベロリンガはこう切り返す。
「でも……そう言う君だって、こうしてオイラの晩ご飯になっちゃうまで、色々なものを犠牲にして今まで生きて来たんでしょ? 食べ物一つを取ってもそうじゃないか。君はさっきに口にしたお茶と干した木の実以外、まさか霞でも食べて暮らして来たワケじゃないよねぇ? そういう意味ではオイラと君は同じ穴のマッスグマ……」
 これに関しては正論中の正論だったが、そこでブラッキーの怒号に遮られてしまう。
「う……うるさい、うるさいっ! 俺をお前みたいな野蛮な奴と一緒にするんじゃねぇ!」
 これ以上は不毛なだけだ。ベロリンガは話題を切り上げることにする。
「ふぅん。野蛮、ねぇ……。分かった、分かったよ。今は何も言わないでおく!」
 そう言ってベロリンガは両手のひらを前に突き出し、何度も左右に振って見せるのだった。
 それから先も後退を続けるブラッキーであったが、間もなくして一歩も動けなくなってしまう。とうとう洞窟の出口まで来てしまったのだった。進もうと思えば進めるものの、いざ激しい雷鳴と降り付ける雨の轟音が支配する空間を前にして、やはり足が竦んでしまうのだった。
「えへへっ、行き止まっちゃったね。もちろん、君にそこまでの勇気があるのなら話は別だろうけど……?」
 そんな相手の胸中を見透かしたかのようにベロリンガは言う。仮に外へ出られたとしても、長い舌を伸ばして引きずり戻すまでだった。
「うぅっ……!」
 見えない壁にピッタリと背中を密着させつつ、ブラッキーは呻き声を上げる。
「さっきに教えたでしょ、君のお嫁さんはこの中だって。それなのに外へ逃げ出そうとするなんて君は薄情者だねぇ。……ふふっ、やっぱり他に好きな子がいるんでしょ?」
 普段の彼に掛けようものなら半殺しの報復は免れられない一言であったが、もはや今の彼に出来ることは何一つとしてなかった。彼は真っ白に漂白された歯をガチガチと言わせつつ、全身をブルブルと震わせる。
「早くこっちへおいでよ。夢だったんでしょ、大好きなお嫁さんと一つに結ばれるの。君は今からオイラに食べられ、お腹の底でドロドロに溶けて、その先で待つお嫁さんと混ざり合って一塊のウンチになるのさ! ずっと離れ離れになる筈だった二匹が、嵐の夜に感動の再会を果たして文字通り一つに結ばれる……最高にロマンチックだよねぇ」
 うっとりとした表情で何とも汚くて下品なロマンを語って見せたベロリンガ。その間も彼は距離を詰めて行き、とうとうブラッキーの目と鼻の先にまで迫ってしまうのだった。
「さぁ、覚悟は出来たかい? 君が入るのはこの中だよ……!」
 前屈みの姿勢になったベロリンガは大口を縦いっぱいまで開き、すっかり焚き火の炎で火照った腹の底からの生温かい吐息を吐き掛けると同時に、幾本もの太い唾液の柱がそびえ立つ桃色の摩天楼を奥の奥まで見せ付ける。
「あ……ああ……!」
 すっかり血の気が失せた顔面にベロリンガの口から漏れ落ちた唾液がボタリ、ボタリと降り掛かった瞬間、彼の恐怖は極限に達した。大きく身震いすると同時に彼の後ろ脚の付け根付近からホカホカと湯気立つ濃い黄色の液体が溢れ出し、床の上に同心円状に広がって行く。恐怖のあまりに彼は失禁してしまったのだった。
 そんな笑いの種をベロリンガが放置する筈もなかった。たちまちに彼は指を差して大笑いし始める。
「……ぷぷっ! あはっ、あははっ! オシッコちびっちゃったよ、この子! だらしないったらありゃしないんだ! 怖がらせ過ぎちゃったね、ごめんよー!」
 言われて初めて気が付いたブラッキーは慌てて両前足で止水しに掛かるも、いったん切れてしまった堰の修復は不可能だった。そのまま勢い良く漏らし続け、彼は最後の一滴を出し尽くすまで粗相を続けてしまうのだった。
「……あーあ、こんなの君のお嫁さんが見たら泣いて悲しむだろうねぇ! と言うか君、さっきトイレを済ませて来たばかりじゃなかったっけ?」
 何もかもが色々な意味で終わってしまった後、まだまだ笑い足りないベロリンガは口に手を当ててクスクス笑いをし始める。
 惨めだ。床いっぱいに広がった黄色い染みを死んだコイキングのような目で見つめつつ、ブラッキーは心の底から思う。こんなにも不甲斐ない自分は、もういっその事、この太った山椒魚の餌食にでもなってしまえば良いのだ――。徹底的に追い詰められた彼の中には、そんな意識すら芽生え始めてしまうのだった。
「えへへ、色々と面白いものを見せてくれてありがとう! 最高の前菜だったよ! それじゃあ、そろそろメインを頂いちゃおうか……!」
 そして、その瞬間は間もなく訪れてしまう。今日で数回目となる舌なめずりをしながら、ベロリンガは舌を伸ばす体勢を整える。
「いっただっきまぁぁす!」
 ヌチャァッ、と湿った音を立て、たっぷりの唾液が滴る瑞々しい長い舌がベロリンガの口から発射される。伸ばされた舌がブラッキーの腰近くの背中に一巻きされたかと思う間もなく彼の体は宙高く持ち上げられ、そのまま二巻き、三巻きとされて行き、あっという間に肩近くまでを蜷局の内側に埋められてしまうのだった。
「いっ、嫌だぁぁぁぁっっっ! 食べられたくないぃぃぃぃっっっ!」
 後ろ脚の付け根からポタポタと黄色い雫を垂らしつつ、断末魔の叫びを上げるブラッキー。その目からは今日で一番となる量の涙が溢れ始める。
「ええっ!? それって……もしかして本気で言っているのかい?」
 相手の発言にベロリンガは目をキラキラと輝かせて見せる。
「聞かなきゃ分かんねぇのか、クソ野郎……!」
 無駄な抵抗と知りつつも、蜷局から逃れようと必死に体をくねらせながら、彼は憎しみに震える声で眼下のベロリンガに返す。
 こんなふざけた下等生物の餌になるなんて――。この頃になると、食べられる恐怖より悔しくてやるせない気持ちの方が彼の中では上回り始めていた。
「そっか! 君の魂の叫びが聞けてオイラとっても嬉しいよ!」
 にこやかな笑顔をベロリンガはブラッキーに送る。
「……君に食い殺されて行ったコラッタ達も同じ気持ちだったろうからね!」
 間もなくしてベロリンガの口から告げられたのは衝撃的な一言だった。
「んなっ……!」
 途端にブラッキーは目の色を変えてベロリンガの顔を見る。
「な……何の話だ!? 知らない! 俺は何も知らない!」
 激しく動揺した様子で否定して見せたものの、ベロリンガは表情一つ変えなかった。
「とぼけても無駄だよ。……君の牙に染み付いていたのさ。それも一匹や二匹なんて話じゃない。何匹ものコラッタ達の血の匂いがね! こんなのは君が食い殺してなきゃ説明が付かないんだ!」
 ベロリンガは言葉の最後で語気を強める。その表情からはシラを切ろうとした相手に対する怒りの感情が僅かながら読んで取れた。
「うぅ……!」
 こいつ、さっきに舌で口の中を弄った時に……! 決定的な証拠を突き付けられ、ブラッキーは返答に窮してしまう。
「君の場合は獲物の喉笛を食い破るんだよね。滝みたいに血が噴き出て、息も出来ず、激痛にのた打ち回って……段々と体が冷たくなって行く感覚に怯えながら苦しみ抜いて死んじゃうんだ。……ああ、想像するだけで頭がクラクラするよ」
 言いながら本当に頭がふらつく感覚に襲われてしまったベロリンガは片方の手で頭を強く押さえる。
「想像するに昨日は張り切っただろうねぇ。何たって結婚生活の一日目を祝うための御馳走を準備しなきゃいけないんだ。そりゃもう、狩って、狩りまくったんでしょ? とは言え、大食いのオイラに掛かればペロリだけど、君は七匹も八匹も牙に掛けて胸が痛まなかったのかい? 食べ切れないでしょ、そんなに。……さしずめ、美味しい部分だけ食べて、後は捨てるつもりだったね? この蒸し暑さじゃ、あっという間に腐ってダメになるだろうから、蓄えにする目的があったとも思えないし……クロでしょ?」
 ブラッキーの目を真っ直ぐに見据えながらベロリンガは独自の推理を展開して見せる。
 駄目だ。どこにも反論の余地がない――。あまりの気まずさにブラッキーは黙り込んだまま視線を逸らしてしまう。たった今にベロリンガが言った内容は昨日の自分の行動を殆ど完全に言い当てていたのだった。
 沈黙こそ最大の答えだった。ベロリンガは口元に笑みを浮かべる。
「ふふっ、その様子だと図星みたいだね。……あーあ、君ったら最低で最悪な男だよ。ロクに食べもしない癖に命を奪っちゃうなんてさ。どれだけ残酷なことをしたか分かっているのかい?」
 ベロリンガは軽蔑の表情を隠さない。彼は頭の後ろで両手を組みながら横目でブラッキーを睨む。事実、狩りで手に入れた獲物は何もかも残さず食べて暮らして来た彼にとって、食べ切れもしないのに命を奪うのは最大の禁忌を犯すにも等しい行為だったのである。
 一方のブラッキーにとっては何でもない行為だった。市場へ足を運びさえすれば幾らでも食べる物が手に入る生活に慣れ切ってしまった今、食べ切れなくなった物を捨てるのは当然の日常と化していたためである。それは、趣味も兼ねたハンティングで狩った獲物についても例外でなかった。否、知らず知らずの内に、例外でなくなっていたのだった――。
 ベロリンガの罵りは止まるところを知らなかった。彼はこうも続ける。
「あと、君の口がやたらと生臭かったのは、狩りの後も口の中を血塗れのままにしていたからだね? オイラも全てに気が付いた時は舌を疑ったよ。何しろ文化的な世界で暮らしている筈の君が、未開の世界で暮らすオイラですらドン引きしちゃう振る舞いを平気でやってのけちゃうんだもん。……ふふっ、君は野獣だよ! 紳士のフリした野獣さ! オイラにも劣る野獣なのさ! あはっ、あははっ!」
 込み上げる笑いを抑え切れず、ベロリンガは舌に巻いたブラッキーを指差して大笑いし始める。普段なら声を荒げて反論する筈のブラッキーであったが、すっかり脱力してしまい一言も返す気力が湧かなかった。言葉の一つ一つが彼の本質を的確に言い当てた真実に他ならなかったためである。
「……さてと、そんな君にはちょっとした話に付き合って貰うよ。食欲もそうだけど、好奇心も満たしたくなっちゃってね」
 笑うだけ笑った後、ベロリンガは高く持ち上げていたブラッキーの体を目線の高さまで降ろしてやる。既に合わせる顔もなくなっていた相手であるが、じっくり待って、渋々ながらも目を合わせて来た瞬間にゆっくりと口を開く。
「殆ど問わず語りで恐縮だけど最後まで聞いた上で答えて欲しいな。……オイラって獲物を傷付けたり苦しめたりするのが大嫌いなんだ。自分が食べられる側に回った時にそんな目に遭いたくないからね。ベロベロ舐め回して色々と痺れさせるのは、オイラに食べられる獲物が苦しかったり、痛かったり、怖かったりしないようにするためでもあるのさ。……あ、君のお嫁さんも最後は食べられることすら分からなくなっちゃったみたいでね。気持ち良さそうな顔をしていたよ。きっとオイラのベロの感触が気に入っちゃったんだね」
 昨日の出来事を思い出しながら笑顔を浮かべたベロリンガであったが、たちまちに物凄い表情で睨み返されてしまう。
「そんな顔しないでよ、もう! ここに来て嘘なんか吐かないからさ! ……あぁ、そうそう! この前なんか求愛して来た子もいてね! あれは対応に困ったよ。無視して食べちゃうのも酷な話だったから、何とか満足して貰ってから胃袋に納めてあげたんだ。オイラに呑まれて行った時のあの最高に幸せそうな表情……きっと一生忘れないだろうなぁ」
 狩りに出て、食べて、寝て暮らすばかりの単調な日常の中の楽しい思い出だった。ベロリンガは遠くを見るような目をする。
「おっと、ごめんよ。話が逸れちゃったね。……まぁ、要するに、さ。食べることに変わりはないから一緒だってツッコミを入れられたらそれまでだけど、オイラに残酷な方法で狩りをするような趣味はないってことさ。君とは違ってね」
 相変わらずブラッキーは無言のままであったが、最後の方で相手の顔を直視していなかったことから察するに、思うところは少なからずあるようだった。
 ベロリンガの話は更に続く。
「あと、オイラって狩りで得た獲物は今まで一匹も粗末にしたことがないんだ。丸呑みにしちゃうから何も食べ残せないって話でもあるけどね。一匹なんて次元の話じゃないよ? 骨の一本、血の一滴、毛の一本すら粗末にしたことがないって胸を張って言えちゃうんだ。これも君と大きく違うポイントだね」
 そこで彼は視線を落とし、両手で左右からお腹の贅肉を真ん中の一か所に寄せて見せる。
「オイラのお腹って本当に凄くてね。食べた物は何もかも溶かし尽くして栄養に変えちゃうみたいなんだ。……あ、そうそう。君がオイラに食べられちゃった後、食べられたことを示す手掛かりが見つかって……なんて展開に少しでも期待しているのなら諦めてよ? 汚い話で悪いけど、粘土の塊と見分けが付かないからね、オイラのウンチ」
「ひっ……」
 聞きながらブラッキーは小さな悲鳴を上げる。毛の一本まで溶かし尽くされ、後は手掛かり一つとして残らない――。完全に命を失ってしまった後の話とは言え、背筋に冷たいものを感じずにはいられなかった。
「これが土とよく混ざって最高の肥やしになるんだ。君も明日からはオイラの果樹園で頑張って貰うからね。ゆっくりと土に還って、秋の甘い実りになって帰ってくるまでが君とオイラの付き合いさ。長い付き合いになっちゃうね!」
 ベロリンガは嬉しそうにして見せる。
 そんな付き合いがあってたまるか。ブラッキーはそっぽを向いてしまう。
「ふふっ、嫌そうな顔してるね、君。……まあいいや。これで何となくは伝わったと思うけど、食べた獲物は最後まで無駄なく役立てるのがオイラのポリシーなのさ。食べて終わりの関係じゃ食べられた子に申し訳ないからね。次なる食べ物を得るため、ひいてはオイラのせいで不幸な目に遭う子が一匹でも少なくなるように……なんて言ったら偽善者だってツッコミを入れられるだろうから止めとこうっと、あははっ!」
 意外だ。今までに聞いた話を総合しつつ、ブラッキーは思わずにはいられなかった。
 目の前の相手も含め、野生で暮らすポケモンは全て本能の赴くまま暮らしているにも等しい愚かな存在だと思い込んでいた。しかし現実は違うようだ。食べられる側の自分としては到底受け入れられないが――目の前の彼は、稚拙ながら彼なりの考えを、行動理念を、ひいては哲学とでも呼ぶべきものを持っている。野生のポケモンもまた個性を持った存在なのだ。昨日のコラッタ達だって――。そこまで飛躍しそうになった瞬間、彼は大慌てで考えるのを止めた。
「……対する君は一切そういうことしてなさそうだね。トイレに行く時だって本気で嫌がっていたし。まぁ、そりゃそうか。……あれでしょ? 汚い話ばかりで本当に申し訳ないけど、街のトイレは全て地下の一か所に繋がっていて、そこに集まったウンチやオシッコはそのまま海へ流しちゃうんだってね? それはそれで便利なんだろうけど、そんな酷いことをして海に住んでいるポケモン達とケンカにならないのが不思議でならないよ、あははっ!」
「げ、下水道のことを言って……!?」
 こんな辺鄙な森の奥深くに一匹で住んでいる彼がどこでそんな知識を仕入れて来たと言うのだ。ベロリンガの言葉にブラッキーは驚きを隠せない。
「へぇ、ゲスイドウって言う名前が付いているんだ、それ! また一つ勉強になったよ、ありがとう!」
 ベロリンガは素直に礼を述べるのだった。
 ベロリンガの疑問の答えについてブラッキーはよく知っていた。自分自身も含む、数で圧倒する街の住民が海の住民の抵抗勢力を粉砕したためにケンカは起こる術がなくなった、それが唯一で無二の回答だった。そんなにも残酷な話を森の住民の彼が知る由もなかった。
 ましてや、元の住民達が消え去ってヘドロの海と化した後はベトベターとベトベトン達の楽園となり、とある商売熱心なベトベトンの一族の長が下水道の維持管理と拡張事業の全てを買って出て、たった数か月で巨万の富を築き上げ、今や街の重鎮として君臨していることなど――彼が知る由もなかった。
「……はぁあ、喋るだけ喋っちゃった! 後半は汚い話ばっかりしてごめんよ。でも、まぁ、食べるのとは切っても切り離せない話だから仕方ないよね! 長話になっちゃったけど、これでオイラのことよく分かったでしょ? 君には隠し事の連続だったから本当にスッキリしたよ。特大のウンチを出し切った気分さ!」
 ベロリンガは晴れやかな表情を浮かべて見せる。舌の根も乾かない内に下品な例えを使ったのはご愛敬だった。
「よし、最後の最後で君に一つ質問だよ。こんな状況で難しいとは思うけど、落ち着いて考えて答えて欲しいな」
 言いながらベロリンガは相手の体を持ち上げる舌に力を込め直す。そう前置いて切り出したのは、彼の頭の中で固いしこりになって残っていた言葉に関することだった。
「ずばり聞くけど、オイラと君で野蛮なのはどっちなんだろうね? ……君に言われてから色々と考えて来たんだけど、オイラ君の方が野蛮で、ずっと残酷な存在に思えてならないんだ。君の名誉にかかわる話でもあるから、何か言い返すことはないかと思ってさ」
 答えるまで食べないから、ゆっくり考えてくれて良いよ。そう言い掛けたベロリンガであったが、沈黙された場合に備えて言わないでおいた。
 ドキリとさせられる質問だった。ブラッキーは思わず息を呑む。自らの無意識の悪を暴露された今となっては、答えるのが非常に難しい質問となっていた。
 どうせ答えようが答えまいが待ち受ける運命に変わりはあるまい。そう思うと答える気が失せてしまいそうになったが、ここは何とかして相手の心を深く抉るような言葉を掛けてやりたいものだった。
 ……そうだ。この切り口ならばあるいは。運良く反論の材料を見つけたブラッキーは静かに口を開く。
「……ふん、何を今さら分かり切ったことを。お前の方に決まっている。善意を装って俺に近付き、心を許した後で寝首を掻きに掛かった卑怯者のお前の方に!」
 そう来たか。ベロリンガは少しうつむき加減になって目元に手を当てる。
「……お前と違って俺はいつも真っ当にやって来た! 獲物とは目と目が合った瞬間から真剣勝負、全身全霊を賭けて仕留めに行き、そして殺す! それがハンターの礼儀というもの! 真っ向勝負を選ばなかった貴様など畜生にも劣る存在に等しい!」
 決まった……! 話す内に段々と興が乗って行き、最後には啖呵を切るに至ったブラッキーは心の中でドヤ顔を決める。
 曲がったことが嫌いな性分なのだろうけど、色々と拗らせまくっているな、この子。真剣に聞いている風を装いつつ、ベロリンガは冷めた感情を順調に蓄積させて行く。
「ついでに言わせて貰うが、狩った獲物を食べずに捨てて何が悪い? それは俺が正々堂々と戦った結果として手にした代物! どう使おうが俺の自由だ! 貴様に非難される筋合いなどない!」
 更に開き直って見せたブラッキーであったが、これこそが彼の本音だった。狩った獲物も市場で買った食料と同じ。食べずに捨ててしまう時もある。別に彼に限った話ではなかった。そのような感覚は多かれ少なかれ、長らく街で暮らす者の誰もが持っているものだった。
 少し期待外れだったかな。彼の言う通りに正々堂々と戦って打ち負かしていれば、もっと面白い答えが得られたかも知れない――。そうするだけの能がない己の非力さを悔やみつつ、ベロリンガは会話を切り上げることを決める。
「答えてくれてありがとう。真っ向勝負を避けたのは否定できない事実だからね。うーん……そういう意味では確かにオイラの方が野蛮な存在になっちゃうなぁ。言い負かされちゃったよ。お見事でした」
 言葉の最後でベロリンガは惜しみのない拍手を送る。既にそんな状況ではない筈であったが、ブラッキーは少し得意そうな様子を隠さなかった。
「……そんな真面目に回答してくれた君へオイラからプレゼント。何も言わないで受け取ってくれたら嬉しいな。何も言わないで、ね」
 そこでベロリンガは大きく腰をひねり、尻尾の折れ曲った部分の内側に片手を突っ込んで中を探り始める。間もなくして彼が引っ張り出したのは、どのタイミングでそんな物を仕舞い込んだのか、真っ赤に熟れた大きなリンゴだった。
 今更そんな物を貰っても。ブラッキーが怪訝そうにして見せた直後、ベロリンガは取り出したリンゴをひょいと放り投げ、遊びになっていた舌先でペトリと受け止める。
「はーい、大きく口を開けてー!」
 リンゴの動きに気を取られてしまった彼は、自身の上顎と下顎のそれぞれを掴みに掛かって来たベロリンガの両手から逃げることが出来なかった。
「……なっ、何をする!? やめ……んがぁっ!」
 こじ開ける力に歯向かうも、麻痺の影響で力の弱まった両顎では太刀打ちできなかった。彼は綺麗さっぱり掃除された口の内側をいっぱいに曝け出してしまう。
 直後、ベロリンガはブラッキーの口の奥深くを目掛けて舌先を差し込んで、舌の先端にくっ付けていたリンゴを思い切り相手の口の中にねじり込む。後は舌の先端をリンゴから離し――
 カプリッ!
 両手でブラッキーの両顎を元通りに閉じれば完了だった。上下で四本の牙はリンゴに深々と突き刺さり、もはや自力ではリンゴから牙を引き抜くことも、リンゴを噛み砕くことも出来なくなってしまうのだった。
「夏の盛りに実を結ぶ変わり種のリンゴの木が近くにあってね。そこで採って来たんだ。貴重な最後の一個だけど君にあげちゃうよ。とってもジューシーで美味しいから楽しんで食べてね!」
 ベロリンガはウキウキした声で無理難題を押し付ける。
 何てことをしてくれる。口が塞がってしまったではないか。ブラッキーは声にならない悲鳴を漏らしつつ、必死に両目を見開いてベロリンガに訴え掛ける。
「ふふっ、無茶を言うなって顔だね。その通り! それは君に食べさせるためのリンゴじゃなくて、君をオシャレな食べ物に変身させるためのリンゴなのさ!」
 言いながらベロリンガは爪でリンゴの表面をコツコツと叩いて見せる。
「……って言っても分かるワケがないから教えてあげるよ。前に君と同じように雨宿りに入れてあげた子で、大きな耳をしたキツネの魔法使いのポケモンがいてね。聞くとハンティングが趣味だそうで、狩った獲物は得意の炎タイプの技でこんがりと丸焼きにして食べちゃうんだって」
 マフォクシーのことだ。こいつめ、そんなにも高貴なポケモンまで餌食に……! ブラッキーは湧き上がる怒りの感情を抑えられなかった。
「その丸焼きにリンゴが欠かせないらしいんだ。何もしないで丸焼きにすると変な顔になっちゃうそうでね。だけど、リンゴを咥えさせて丸焼きにするとあら不思議、すごく格好良い顔に焼き上がるんだって! ……聞いた時からずっとやってみたかったんだ! これからオイラの胃袋のオーブンで料理される君だって、面白い顔で溶けちゃうより、格好良い顔で溶けたいもんね! オイラとしては前者の方が色々と美味しいけど! あははっ!」
 料理に関して深く知らない彼は、当時に耳にした調理器具の名称をそのまま口にしたが、彼の胃袋はさながら、グツグツと獲物を丸ごと煮込んで、ブイヨンの効いた味わい深いシチューにしてしまう寸胴鍋だった。
「これで魅力はグーンとアップ! 今の君は最高に贅沢で美味しそうな、この世でたった一つの肉料理さ! ……色々と待たせて悪かったね。今度こそオイラのお腹の中に入れてあげるよ!」
 長らくの夢を果たしたベロリンガは満足した様子でブラッキーを食べ始める。初めに両方の後ろ脚に食らい付いたベロリンガの口の中いっぱいに広がったのは、ほんのりとしょっぱい感覚だった。
「ふふっ、この味付けは余計だったかな?」
 ベロリンガは嫌味を言って見せた。
「……そうだ。頑張って答えてくれた君へのコメントがまだだったね。これ以上も頬張っちゃうと上手く喋れなくなるから、今の内に済ませておくよ」
 順調に後ろ脚の根元近くまで呑み込んだ時点で舌の動きを止め、ベロリンガはブラッキーの顔を真っ直ぐに見据える。
「さっきに言われた通り、確かに騙し討ちで君をやっつけたオイラは卑怯者かもしれない。でも……そういう部分も全部ひっくるめての実力だとオイラは思うんだ。いや、思うようになったんだ」
 とある出来事が彼の考えを変えたのだった。彼はブラッキーの口のリンゴを指差しながら続ける。
「それを教えてくれたキツネのポケモンだけど、落とし穴を使って猟をするそうなんだ。落とし穴って言っても悪戯に使うようなレベルのものじゃないよ? サカモギって言う、先を鋭く尖らせた木の枝が底に何本も立ててある、落ちたら串刺しになって死んじゃう恐怖の落とし穴さ。……いやぁ、流石に聞いた時はオシッコちびったよ。君と違ってバレなかったけどね!」
 ベロリンガはクスリと笑って見せる。
「その子だけど本当に凄いんだ。冬の雪山に落とし穴を仕掛けて、冬眠しないで過ごしているリングマを狩ったこともあるんだって。もう一度言うけど、冬眠しないで過ごしているリングマだからね? いいかい、大事なことだから二回言ったよ?」
 ベロリンガは強調して見せた。
 穴持たず――アウトドアに精通したブラッキーが知らない筈がなかった。何らかの理由で冬眠に失敗した野生のリングマを指す言葉である。極限の空腹状態にあるため、その性格は極めて凶暴。北にある山麓の小さな集落を襲って全員を食い殺した記録も残されている程の恐るべき存在だった。
 一対複数の有利と思われる状況で遭遇したとしても、絶対に交戦は避けること――。その危険性は彼が愛読したアウトドアの指南書に書かれている通りだった。
「……君は真っ向勝負がポリシーらしいけど、そんな相手とがっぷり四つに組み合って勝てる自信はあるかい?」
 無理に決まっている。始まった瞬間に四肢をバラされて首をもぎ取られるのがオチだ。ブラッキーは恐怖に慄きながら首を左右に振る。
「うんうん、そりゃそうだよね。オイラなんか一瞬で文字通り骨までしゃぶられちゃうよ」
 ブラッキーの反応を確認したベロリンガは大雨が続く屋外へと視線を向ける。
「その子が教えてくれたんだ。狩りの本質は獲物との知恵比べ、そして騙し合いだってね。真っ向勝負が全てじゃない。悪知恵を働かせて獲物を破滅させるのも立派な作戦、それで格上の相手を仕留めたら誇るべき勝利だって。……その言葉にオイラは救われた。どうせ嘘だと思われるだろうけど、騙し討ちで獲物を捕らえるのは正直に言って後ろめたかったんだ」
 そこでベロリンガはブラッキーに視線を戻す。
 彼の言葉に偽りはなかった。正々堂々と戦って力でねじ伏せてから食べられるのなら、どれだけ美味しくて気持ちの良いことだろう。ベロリンガの胸の内に確かにあった感情だった。
「この際だからはっきり言うけど、オイラにとっては君もお嫁さんも、冬眠しないで過ごしているリングマと何ら変わりない。進化を経て絶大な力を手にした君達に、デブで鈍間なオイラが真っ向勝負を挑んで勝てるワケがないのさ。だから……悪知恵で勝負することにした。君のお嫁さんの場合は近くの茂みの中にすっぽりと身を潜めてね、不審がって近付いて来た瞬間に綺麗なお顔をベロォーン! ベトベトの唾液で汚して怯ませた後はずっとオイラのターンさ。ひんし状態になるまで思いっきり舐め回してあげたよ。……あれ、何だか羨ましそうにしているね、君」
 その眼差しは彼が言ったのとは何もかもが正反対のものだったが、ベロリンガは皮肉って見せた。
「そして君は毒入りのお茶で痺れさせてあげた! 毒と言ってもオイラの唾液だけどね。オイラが水を汲みに行った時、それと君がトイレに立った時。無防備にも君はオイラに二回もチャンスをくれたんだ。……そういう意味では君もお嫁さんも最弱の相手だったよ。説教するワケじゃないけど、お嫁さんはともかくとして、君はもっと悪意に敏感でなきゃ駄目じゃないか。悪タイプでしょ、君」
 言葉の最後で相手の心にグサリと突き刺さる一言を掛ける。
 舐められる前から体が痺れていたと思えば、そんな気色の悪い真似を……! ブラッキーは思わずベロリンガの顔を睨む。
「ふふっ、そんな目で見ないでおくれよ。何でもないことじゃないか。オイラとベロまで絡め合う程の仲良しになった今となってはね!」
 そう言ってベロリンガは相手の反発を蹴散らした。
「仲良しと言えば、オイラそのキツネのポケモンのこと大好きなんだ。その子だけど凄いエスパーの力を持っていてね。火を灯した小枝の炎越しにオイラを見て精神統一しただけで、オイラの何もかもが分かっちゃったんだって。そして……その何もかもを受け入れた上でオイラと仲良しになってくれたんだ。もう少し体が小さければ餌食にするつもりだったことも含めてね。本当に懐が広くて優しいポケモンなんだ。……その点、君とお嫁さんは残念だったね。もう少し体が大きかったら、こうはならなかったんだよ?」
 食べられるか否か。彼が他者を餌食にするか友達にするかの最大の判断基準だった。
「少し脱線したけど、要はオイラが仕掛けた落とし穴にまんまと引っ掛かった君達が悪いのさ。掛かったら最後、ベロで巻かれて食べられちゃう、オイラ特製のネバネバ落とし穴にね!」
 ベロリンガはブラッキーに笑い掛ける。
 結局は彼の言い分が全てだった。騙される方が悪い、それが野生の世界の常識だった。
「……前半部分についてはこんなものかな。後半部分については苦言を呈させて貰うよ」
 そこで彼の口調は不機嫌そうなものに変わる。
「狩った獲物は自分の物だから好きに使って良いって理屈なんだろうけど、どう考えても捨てるのは駄目でしょ。そもそも使った内に入らないじゃないか、それ。……ただでさえ君に理不尽にも、それも恐ろしい方法で命を奪われているんだよ? そんな事をしたら何のために死んだかさえ分かんなくなっちゃうじゃないか。捕った獲物は最後まで責任を持って食べ切る、それが出来ないのなら最初から捕らない、当たり前の話でしょ? そのくらいは守ろうよ」
 街で暮らしていると頭がおかしくなってしまうのだろうか――。彼は少し前に食べた別のポケモンも似たような内容を話していたことを思い出す。野生で精一杯の暮らしを続ける彼に、飽食の物質社会に毒され切った者達の感性など理解できる筈がなかったのである。
「これで言いたいことは全てさ。……とうとう最後まで理性を保ったままだったね、君。お嫁さんは一瞬でヘロヘロになってくれたけど、何だか君には効果が薄いみたい。タイプの相性とか関係していたりするのかな?」
 その仮説は概ね正解だった。分類するなら彼の舐め回し攻撃はゴーストタイプの技。エスパータイプのエーフィには効果抜群となる一方、悪タイプのブラッキーには効果が今一つとなってしまうのだった。
「怖い思いをさせちゃうのは忍びないけど、君みたいな思い上がった考えの持ち主は理性が残ったまま食べられるが良いさ。せいぜい君が今までに爪と牙で引き裂いて来た者達に思いを馳せてあげることだね。彼らと同じ境遇に置かれた今、きっと想像力がよく働くと思うよ。……それじゃあね。お嫁さんによろしく!」
 別れの挨拶を述べると同時にベロリンガは口を上向け、ブラッキーの両後ろ足を口の中の奥深く、貪欲な胃袋へ一直線に続く食道へと引きずり込む。胴体に巻き付けていた舌も解いてピンと伸ばし、直立させたブラッキーの体をもたれ掛からせる。
「んんっ! んっ、んーっ!」
 何が何でも食べられる訳に行かないブラッキーは必死に後ろ足を引き抜こうとするが、それは数多の獲物を丸ごと胃袋まで送り届けて来た伸縮自在の器官。後ろ足を動かす度にグニグニと押し広げられ、さながら底なし沼に沈むかのように彼の体はズブズブと吸い込まれて行ってしまうのだった。
 食べられたくない! 今や胸の近くまで呑まれてしまった彼は肉厚の巨大な舌に一心不乱でしがみ付く。が、たっぷりの唾液でヌルヌルと滑るそれは文字通り掴み所のない代物であり、体が沈み行くスピードを僅かに遅らせる程度にしかならない。
 せいぜい君が今までに爪と牙で引き裂いて来た者達に思いを馳せてあげることだね――。絶体絶命の状況に立たされたブラッキーの眼前に昨日の血みどろの惨劇が蘇る。夕暮れ後の星空の下、郊外に広がる草原の真ん中で火を囲んでいた若いコラッタ達の群れを襲い、楽しい語らいの場を修羅場に変えた時の光景だった。
17/12/18 00:38更新 / こまいぬ
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