連載小説
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シーン2
「おーい! この中だよ! 早く早く!」
 深い木立の隙間に設けられた獣道を抜け切り、やっとの思いで自分のすみかである洞窟にたどり着いたベロリンガは、その入り口の手前で立ち止まって後方を振り返り、遅れてやって来たブラッキーに対して洞窟の入り口を指し示してやる。
「はい、今すぐに!」
 返答を確認してから彼が洞窟の中へと駆け込むと、その数秒後にはブラッキーも洞窟の中へと走り込んで来た。洞窟に到着するなり、彼は胴体と頭をブルブルと左右に激しく揺り動かし、毛皮に溜まった水分を落としに掛かる。
 洞窟に入ってすぐの場所で到着を待っていたベロリンガは、それが一頻り終わるのを待ってから彼に労りの言葉を掛けてやるのだった。
「……お疲れさま。長いこと走らせてしまってごめんよ。大丈夫? 息とか切らしてないかな?」
「いえいえ、お気遣いなく! スタミナには結構な自信がある方でして!」
 明るい笑顔を浮かべながら答えたブラッキーに対し、ベロリンガは洞窟の奥の方を指し示して見せる。
「……よし、こんな所で立ち止まっているのも何だし、奥まで行こっか」
「ありがとうございます。ですが、ええと、その、お手数お掛けして誠に申し訳ないのですが……奥まで案内して頂けますかね?」
 そう言ってブラッキーは上目遣いにベロリンガの顔を見て来る。どうやら案内がなければ迷ってしまうような洞窟を想像しているらしい。
「あはは、悪いね! 君が思っているほど複雑な洞窟じゃないんだよ。この洞窟なんだけどさ、入り口から十歩も奥に進めば行き止まってしまうだけなんだ。ま、そういう事だから心配しなくて大丈夫だよ!」
 ブラッキーを安心させた所でベロリンガはブラッキーを連れて洞窟の奥まで進んで行った。浅い洞窟とは言え、入り口付近ならばまだしも、流石にこの時間帯では視界を利かせようがない。洞窟の最奥部に行き着いたベロリンガは、後ろから付いて来ていたブラッキーにその場でしばらく立ち止まっておくよう指示を出す。
「いまに火を起こして明るくするよ。そういう事だから少しだけ待っててね……」
 視界が利かないとは言え、住み慣れた我が家の事である。このベロリンガであるが、自分が今いる場所からどの方向にどれだけ手を伸ばした所に何が置いてあるかという事くらいは視覚に頼らずとも分かっていた。
 そんなだから、彼が燃料用として固めてあった枯れ草の山に手を伸ばしてその一部を掴み取り、床の上を石で囲っただけの簡素なつくりをした囲炉裏の中にそれらを放り込んでしまうまでに大した時間は掛からなかった。
 焚き火の準備を終え、残すは火を付ける作業のみであった。ベロリンガは枯れ草の山のすぐ近くに置いてあった一組の火打ち石をひょいと拾い上げて左右の手に一つずつ持ち、囲炉裏の真上でそれらを互いに激しく打ち合わせて枯れ草に火の粉を浴びせ掛けたが、カラカラに乾燥し切った枯れ草の事である。火の粉を浴びせられた部分という部分から火の手が上がって行き、囲炉裏に盛られた枯れ草は瞬く間に燃え上がる。そこで間髪を入れずに落ち葉を投入して火の勢いを増し、最後に乾いた小枝を何本かくべてしまうと、小さいながらも立派な焚き火が完成した。
「これでよし、と。……うん、悪くないね」
 全ての小枝に火が燃え移るのを見届けた所で、ベロリンガは焚き火に向かって満足そうな笑みを浮かべる。焚き火の真正面に腰を下ろしていた彼はそこで腰を上げて背後を振り返り、すっかり明るくなった洞窟の中でブラッキーの顔を見た。
「お待たせ! どう? 明るくなったでしょ?」
「ええ! ありがとうございます!」
 行儀良く座って待っていたブラッキーが顔をほころばせると、ベロリンガは一歩だけ横にずれて焚き火の全貌がブラッキーの目にも見えるようにした。その上で彼は焚き火を指し示して見せる。
「……さ、君も近くまでおいでよ。まずは濡れてしまった体を乾かさなきゃ」
「はい! それでは……」
 ブラッキーは軽く頷いた後に立ち上がり、ちょうど焚き火を挟んでベロリンガと向き合える位置にまで移動して行った。
「……ささ、座って、座って! 荷物はその辺にでも下ろしてくれたら良いからさ!」
 ベロリンガはブラッキーの背中に視線を向けつつ呼び掛ける。このブラッキーであるが、どうやら旅の途中らしい。彼の背中には深い紺色をしたナップサックが背負われてあったのだった。
「ええ、かしこまりました!」
 相変わらず律儀に返事をしたブラッキーは言われた通り焚き火の前に腰掛け、それからナップサックを下ろしに掛かる。ナップサックと彼の体を固定していたベルトを首周り、そして胴回りという順番で外してしまうと、ブラッキーが負っていたナップサックは彼の背中を滑り落ち、彼のすぐ傍らの地面の上に転がった。それと同時にガチャリと金属がぶつかるような音を耳にした彼は、自身のナップサックに不審の目を向ける。
「あれ? 今の音はまさか……」
 そう言うなり彼はナップサックを手元まで引き寄せ、中に両方の前足を突っ込んで中身を探り始めたが、お目当ての品はすぐに見つかったらしい。彼の前足の動きは数秒と経たない内に止まった。
「……やっぱり。しまった、こんな物を入れっぱなしにしてしまうとは……。もう少し確認してから出るんだった……」
 小さく息を吐いた彼が中から引っ張り出したのは、木の皮を丹念に織り込んで作られた蓋付きの小さな編みカゴだった。
「それは何だい?」
 編みカゴを興味深そうに眺めていたベロリンガが尋ねると、ブラッキーは思い出したように顔を上げる。
「……あ、これですか? アウトドア用のティーセットですよ。これ一式あれば野火で湯を沸かしてお茶を楽しめる訳ですが……家を出る前にバッグを十分に整理しなかったため、特に必要もないのに持って来てしまったのです」
 説明の途中でブラッキーは編みカゴの蓋を開け、中身がベロリンガの目に見えるようにする。真上から見る限り、余分なスペースを取らないで済む平べったい形をしたケトルが入っているのみであったが、その下側にも色々と収納されているらしい。彼が編みカゴを動かす度に金属どうしが擦れ合うカシャカシャという音が聞こえて来るためである。
「へぇ、良かったじゃない!」
「えっ? 何がです?」
 突然に嬉しそうな声を上げたベロリンガに対し、ブラッキーはキョトンとした表情を浮かべる。
「今が使い時じゃないかって事だよ! ほら、焚き火だってここにあるしね!」
 そう言ってベロリンガが焚き火を指し示すと、ブラッキーは自身の手元にある編みカゴと焚き火へ交互に目をやり始める。両者の間で視線を何往復かさせた後、ブラッキーはベロリンガの顔を見て小さく頷いた。
「……なるほど。言われてみれば確かに」
「でしょ? せっかくだし使ったらどう? わがまま言わせてもらうとさ、オイラ君とお茶したいなぁ! 雨が降り止むまでしばらく掛かりそうな事だし! ね、いいでしょ!? お願い!」
 言葉の終わりでベロリンガは両手を合わせたが、そこまでする必要性は皆無だった。ブラッキーは明るい笑顔を浮かべてベロリンガの申し出に対して頷いて見せる。
「えぇ、喜んで! 自分もちょうど喉が乾いていた所だったのです。かしこまりました。すぐに準備させて頂きます!」
 ベロリンガにお茶の準備を任されたブラッキーは即座に両方の前足を編みカゴの中に突っ込み,中に入ってある品々を取り出しに掛かる。平べったいケトルが最初に床の上に置かれたのと同時に、ベロリンガはブラッキーに声を掛けた。
「あ……お湯を沸かすくらいはオイラがやるよ。そのケトルだけど、ちょっと貸して貰ってもいい?」
「構いませんよ。どうぞ!」
 彼が快く差し出して来たケトルをベロリンガは短い腕をいっぱいに伸ばして受け取る。
「ありがと!」
 ベロリンガは一言礼を述べてから立ち上がり、部屋の隅に置いてある大きな水瓶へとケトルの中を満たしに向かった。水瓶の前に立ち、蓋代わりに載せてあった二枚の木の板の片方をもう片方の上に載せ、そのまた上にケトルを載せたところでベロリンガはそっと背後を振り返る。
 ブラッキーはと言うと、編みカゴの中から取り出したソーサーを自身の目の前まで持って行き、その光り具合を丹念に観察している所であった。前回に使った時の汚れが残っていないかをチェックしている最中なのだろう。時折、傍らに置いてあるナプキンを持ち上げてはその表面を擦っている。
「よし、これは問題なし、と……」
 彼は持ち上げていたソーサーを床の上に置き、今度はその上に乗っかると思しきティーカップを編みカゴの中から取り出して同様の作業を続ける。熱心に作業に打ち込むあまり、周囲の状況など一切目に入っていない様子であった。
 そこまでを確認したところでベロリンガは水瓶の中に差さってあった柄杓を掴み取り、ケトルの内側を水で満たして行った。間もなくしてケトルの内側は水で一杯となったため、普通なら後は水瓶の蓋を元通りにして焚き火の前に戻りさえすれば十分なのだが、ここで彼が決して善意からブラッキーを自宅に招き入れた訳でないという事を忘れるべきではなかった。彼がブラッキーにお茶をしようと持ち掛けたのも、彼を餌食に変えてしまうため作戦の一つに他ならないである。彼が自ら申し出て水を汲みに向かった事もまた同様だった。
「……くふふ」
 水瓶の水面に映る自身の顔を見つめるベロリンガの顔に悪意に満ちた笑みが浮かんで行く。何か良からぬ事を考えているのは表情から一目瞭然だったが、残念な事にそれがブラッキーの目に留まる事はなかった。
 ブラッキーの目が届かない中、彼は巨大な舌を口からはみ出させ、その先端部を蓋の空いたケトルの真上にまで持って行く。そこで彼が舌先をすぼめると、たちまちに唾液が無数の糸を引いて滴り落ち始め、ケトルの中身は瞬く間にベロリンガの唾液混じりの水へと変わってしまった。
 ベロリンガに舐められてしまう――すなわち彼の唾液に触れてしまったポケモンがどうなるかを知っている者ならば、この水から作られたお茶を口にしたポケモンにどのような運命が待ち受けるかは想像するに容易い筈である。
 行為がブラッキーに気付かれてしまわぬよう、納得行く量の唾液を垂らした所で素早く舌を口の中に戻し、彼は何事もなかった風を装いながら焚き火のそばへと戻って行った。そして、元自分が座っていた位置に腰掛けてからケトルに蓋をし、焚き火のすぐ近くにケトルを置いて湯を沸かし始める。
 一方のブラッキーはティーカップ相手に睨めっこをしている最中であった。彼の視線と前足の動きから察するに、どうやら飲み口の辺りが気になるらしい。
「オイラと君とで沢山飲めるようにいっぱい入れて来たよ。後は沸くまで待つだけだね」
「……あ、どうもありがとうございます。お手数お掛けしました」
 ナプキンで飲み口を擦りながらではあったが、そこでブラッキーはようやく顔を上げてぺこりと頭を下げて見せた。それから間もなくして彼も気が済んだらしく、
「よし、僕も準備できました」
 そう言うと同時にナプキンで磨きに磨き上げたティーカップを金属製のソーサーの上にカシャリと置くと、床の上には焚き火の光を受けてピカピカと輝く茶器の一式が二匹分きっちりと出揃うのだった。
「へぇ、ちゃんとオイラの分もあるんだ? 君って気が利くんだね」
 そう言って感心するベロリンガであったが、途端にブラッキーは恥ずかしそうな表情を覗かせる。
「いえ、そういうことでは。……実を言いますと、それは本来なら僕の妻が使う分なのです」
 彼は声を小さくして言った。
「えっ、妻って言うと君のお嫁さんのこと?」
 てっきり独り身だと勝手に思い込んでいただけに衝撃は大きかった。そんなベロリンガの驚きの声にブラッキーは首を縦に振って応じる。
「ええ、そうです。私事で恐縮ですが、僕と妻は色々な場所を旅して回るのが趣味でしてね。これはそんな僕らが出掛けた先で一息入れるための道具なんですよ」
「なるほどね。それで二匹分も入ってるんだ。……あれ、ちょっとおかしいぞ?」
 説明を受けて合点が行ったものの、同時に彼の不審な点に気が付いたベロリンガは言葉の最後で表情を曇らせる。
「おかしいって……何がです?」
「いや、何がって……自分で喋っていて気が付かないものかなぁ?」
 真顔で尋ねられてしまったベロリンガは半ば呆れたような口調で返す。しかしながらブラッキーの反応は芳しいものではなく、訳が分からないとでも言わんばかりのポカンとした表情を覗かせるのみであった。
 このまま相手の応答を待ったところで仕方あるまい。そう判断したベロリンガは口元に拳を当てて一つエヘンと咳払いして見せた後、再び口を開く。
「うーんと、じゃあ、言わせて貰うよ? ……君はお嫁さんを置き去りにして何をしているんだい? それもこんな森の奥深くを一匹でうろついたりなんかしてさ。……そもそも、いったい君はどういう用事があってここに来ていたんだい?」
 ベロリンガは眉間に皺を寄せながら尋ねた。
「……へっ?」
 どうやら意表を突く質問であったらしい。尋ねられた側のブラッキーは間の抜けた声を漏らすと同時に固まってしまう。が、それも束の間、何かを思い出したかのようにハッと我に返ったブラッキーは、それまでとは打って変わって落ち着かない様子を見せ始める。
「あっ……ごめんなさい。えっと……ぼっ、僕が森に来ていた理由でしたっけ。えーっとですね、それは……その……」
 ブラッキーは必死に答えようとするものの、紅い目の瞳が慌ただしく上下左右に動くばかりで、なかなか肝心な部分に差し掛からない。そんな時間が長引くにつれ、ベロリンガがブラッキーに向ける眼差しも何か怪しいものを見る時のそれへと変化して行くのだった。
「……あれ? もしかして口にするのも恥ずかしいような後ろめたい理由だったりするのかい? たとえば……浮気しているのがバレてここまで逃げて来たとか!?」
 回答を待ちあぐねたベロリンガは冗談交じりに尋ねたが、その発言はブラッキーの反感を大いに買うものであったらしく、
「とんでもない! 僕はそんな薄情なポケモンではありません! 馬鹿にしないで下さい!」
 毛色とは対照的な白い牙を剥き出しにし、鋭い目付きをより一層に鋭くして彼はベロリンガに食って掛かったが、他愛もない冗談に目くじらを立てた彼も彼である。そんな相手の反応にすっかり興を削がれてしまったベロリンガは不愉快そうな表情を浮かべる。
「だったら勿体ぶらずに話してくれたらいいじゃないか。……ほら、早く答えてよ?」
 ベロリンガは仕返しとばかりに体をのめらせて相手の鼻先へ自身の顔をぐっと近付ける。その迫力に圧倒されてしまったのか、たちまちにブラッキーは大きく身震いして体を仰け反らせるのだった。
「あっ、えっと……それは……」
 強張った表情を顔いっぱいに浮かべつつ、小刻みに口を上下に動かしながら再び言葉にならない言葉を絞り出し始めたブラッキーであったが、今度は長続きしなかった。程なくして彼は力なく首と両耳とを垂れて目を閉じ、大きな溜め息を吐くのだった。
「ああ、しまった。僕はなんて馬鹿な真似を。こんな事を喋るんじゃなかったんだ……」
 ブラッキーはすっかり観念し切った様子で後悔の言葉を述べた。
「こんなことっていうのは君のお嫁さんのことかい?」
 顔を近づけた状態のままベロリンガが尋ねると、彼は足元の床を見つめながら小さく首を縦に振って見せた。
「で、一匹で森に来ていた理由も君のお嫁さんと関係があるんだ?」
 更に聞くとブラッキーは同様に首を縦に振る。そこでベロリンガはようやく顔を遠ざけた。
「……とは言っても、別にオイラに喋ったところで君の名誉に傷が付くような理由でもないんでしょ? どうして答えるのをためらったんだい?」
 ベロリンガは腕組みをしながら不機嫌そうな声で質問した。理由そのものではなく理由を話すのを躊躇した訳を先に尋ねるあたり、何か隠し事をされるのは相当に気に食わない性分であるらしい。
「本当にすみません。……正直、少しばかり深刻な理由でしてね。ただでさえ雨宿りでご厄介をお掛けしていますのに、心配事まで押し付けてしまっては申し訳ないと思いまして……あなたにはお伝えしないでおくつもりだったのです」
 ブラッキーは相手の表情を伏し目がちに窺い見つつ、申し訳なさそうな事この上ない声で答えるのだった。ベロリンガは回答を聞き終えたところで小さな溜め息を漏らす。
「あきれた。そんな下らない理由からだったのかい? ……とにかく、こうなった以上はオイラに打ち明けなよ。何か力になってあげられる可能性だってゼロじゃないんだからさ?」
「……分かりました。お話ししましょう」
 そう言われてブラッキーも話す気になったらしい。彼は焚き火の炎に視線を移して静かに話し始める。
「実は……その妻が昨日から消息を絶っているのです。この森のどこかで迷ってしまっているのではないかと思いまして……それで捜しに入っていたのです」
 そこまで聞いたところでベロリンガは身を乗り出す。
「それってつまり……君のお嫁さんがこの森の中で遭難している可能性があるってこと?」
 ブラッキーが小さく頷いたのを見届けてからベロリンガは続ける。
「そんなに重大な事をよくも黙っておく気でいられたね? オイラに出会ってすぐの時に言ってくれても良かったくらいのことなのにさぁ……」
 ベロリンガは険しい表情を浮かべて見せた。
「……はい、申し訳ありません」
 そこでブラッキーはベロリンガの方を向き直って素直に頭を下げた。
「なるほどね。そういう事情だったんだ。道理でこんな夕暮れに森の中を一匹でうろついている訳だよ。……で、今になるまで捜し続けて結局見つからなかったんだ?」
 ベロリンガの問い掛けにブラッキーは力なく首を縦に振った。
「ええ、おっしゃる通りです。今日一日、森の中を捜して回ったのですが、手掛かり一つとして……。本音を言えば、今すぐにでも捜索を再開したいのですが、この悪天候では……」
 ブラッキーは洞窟の入口方向に視線を向ける。そんなに深くもない洞窟の事だから、激しい雨の音は耳を澄まさずとも聞こえてくる。
「どう考えても止めておいた方が賢明だね。君、二重遭難って言葉は知っているでしょ?」
「……それはもちろんです」
 焚き火に小枝を足しながらベロリンガが尋ねると、ブラッキーは悔しそうな声で返す。
 追加した小枝にきちんと炎が燃え移るのを確認してから、ベロリンガもブラッキーが見ている方向に視線をやり始める。
「うーん……この分だと明日の夜明けまで降り続けるだろうな。……よし、決まり。君、今夜はここで泊まって行くこと。いったん君を雨宿りに入れた以上、空模様が落ち着くまで君を外に出す訳には行かないからね」
「えっ、泊めて頂けるのですか? でっ、でしたら宿代を……!」
 慌ててバッグの中を漁り始めたブラッキーをベロリンガは笑いながら手で制する。
「そんなの払わなくっていいよ! むしろ、こんな粗末な場所に泊めさせるオイラが君に幾らか払わなきゃいけないくらいさ。……って、オイラずっと森の中で生活しているからお金なんて持っていないんだけどね! あははっ!」
「……ご厚意に感謝します。今晩はお世話になります」
 豪快に笑って見せるベロリンガに対してブラッキーは深々と頭を下げた。ブラッキーがお辞儀するのに合わせてベロリンガも一つ大きく頷いて見せる。
「うん、オイラこそよろしく。……君のお嫁さんの事なら心配ないよ。明日オイラが探せばすぐにでも見付かるさ。この辺りの土地勘がしっかりあるこのオイラがね」
「……えっ、捜索を手伝ってくれるのですか?」
 ブラッキーはたちまち目を丸くする。
「当然じゃないか。こんなの聞いちゃった以上は放っておけないよ」
 ベロリンガはブラッキーの目をじっと見据え、真面目な口調で言った。
「あっ、ありがとうございます! 地元のポケモンに協力して頂けるとは心強い限りで……! 明日はよろしくお願いします!」
 ブラッキーは遠慮することなく即座にベロリンガの申し出を受け入れた。彼は感激の気持ちで目を潤ませながら、何度も何度もベロリンガに向かって頭を下げるのだった。
「あはは! いいよ、いいよ、そんなにしなくたって!」
それを見たベロリンガは照れ笑いしながら、
「……よし、そういうことだから明日は一緒に頑張ろうね!」
 きっと明日の夜明けまでには自身の体の一部と化しているに違いない彼に対して大嘘を吐くのだった。
「はい! もちろんです!」
 ベロリンガの胸の内など知る由もないブラッキーは熱のこもった声で返事をする。
 火にかけていたケトルの蓋がガタガタと音を立て始めたのは、それから間もなくしてのことだった。
「……あ、沸いたみたいだね」
 音に気が付いたベロリンガがケトルに視線を向けるとブラッキーもそれに倣う。間もなくして水は完全に沸騰してしまったらしく、ケトルの注ぎ口と蓋の蒸気口からは真っ白い色をした湯気が勢い良く吹き出し始める。
「ええ、そのようです。……もう少しだけ待って下さいね」
 そう言うなりブラッキーはケトルを焚き火から下ろし、茶器が詰まった編みカゴから金属製の茶筒を取り出して蓋を開け、ケトルの湯の中に適当な量の茶葉を散らすのだった。
 一方のベロリンガはそんな一連のブラッキーの動作を見届けたところで急に腰を上げ、部屋の隅まで歩いて行ってしまう。彼は水瓶のすぐ脇に並べてあった壺の中から一つを選び出し、それを両手で抱えて焚き火の近くまで戻って行く。
「何をなさっておいでで?」
「お茶菓子の用意さ。せっかくお茶するんだから甘い物がなくっちゃね」
ブラッキーが尋ねると、ベロリンガは壺を運びながら答えた。
「よっこいしょ、っと……」
 運んで来た壺を傍らに置いて元座っていた場所に腰を下ろしたベロリンガは、早速彼の言う茶菓子を壺の中から掴み出す。
「……はい、どうぞ。一つ味見してみなよ」
「あ……どうも」
 そう言って彼がブラッキーに差し出したのは、淡い黄色をした干した木の実だった。自身の目の前に差し出されたそれを、ブラッキーは寄り目になりながら受け取る。
「これは……?」
 それが干した木の実であることは彼の目にも明らかであったが、何の木の実を干したものかまでは分からない。手渡された木の実をしばし観察した後、ブラッキーは若干戸惑った様子でベロリンガの顔を見る。
「ふふ……その答えは君の舌で確かめてみるのが一番だと思うよ? ……後、それからもう一つ」
 半笑いになりながら首を少し傾けて見せた後、彼は壺の中に深々と両腕を突っ込み、彼の両手で掴める限界一杯の量の干した木の実を壺の中から取り出す。
 そんなにも沢山の量を掴み出して一体どうするつもりなのだろう? ベロリンガが予想外の行動に打って出たのは、ブラッキーがそんな疑問を抱いた直後の事だった。
 彼は壺の内側から掴み出したそれらを、自身の頭上高く、ちょうど洞窟の天井にぶつかってしまうギリギリの位置目掛けて一挙に投げ上げたのである。投げ上げられた干した木の実が上昇スピードを完全に失い、落下運動に転じる瞬間に合わせてベロリンガは顔を上向けて口を半開きにし、宙を舞い続ける干した木の実を視界の中央に据える。直後、彼は口の内側から長い舌をニュルリと伸ばし、伸ばした舌を箒のように空中で振るって、自身が投げ上げた干した木の実を一つ残さず絡め取ったのだった。
「……いっ!?」
 ベロリンガがどのようなポケモンであるか知ってはいたものの、何の前置きもなしにベトベトの唾液に塗れた巨大な舌とその舌を使った芸当とを目と鼻の先で披露されてしまったブラッキーは、ショックのあまりに裏返った声で悲鳴を上げ、身の毛をよだてて体を仰け反らしてしまう。
 一方のベロリンガはそんな相手の反応など気に掛けることなく、表面にびっしりと干した木の実がへばり付いた肉厚の長い舌を絨毯のようにクルクルと巻いて畳んで口の中へと戻す。そして、それまで上向けていた顔をブラッキーに向け、最高に幸せそうな表情を浮かべながら干した木の実を頬張り、その味を堪能し始めるのだった。
「んーっ、最高! 変なものは入っていないから心配しないでね! ほら、食べて、食べて!」
 安心して食べられるものであることを証明したところで、ベロリンガは干した木の実を口にするようブラッキーに促す。
「……えっ、ええ! そ、それでは頂きます!」
 ショッキングな光景を目の当たりにして動揺し切っていたブラッキーは不自然な作り笑いを浮かべて会釈し、持っていた木の実を一口分だけ齧り取って恐る恐る奥歯で噛み潰す。
 その瞬間、彼の硬直した表情は驚きの表情へと変化する。収穫したばかりの木の実にも劣らないフルーティーな香りが口の中で炸裂し、新鮮な果実本来の爽やかな甘みが舌の上全体に広がったのである。
 たったいま自分が口にしたのは本当に天日で乾燥させた木の実だったのか? ブラッキーは木の実に刻まれた自身の歯形を凝視せずにはいられなかった。
「どう? おいしいでしょ?」
 ブラッキーの表情の変化を察知したベロリンガが自信ありげに尋ねる。
「ええ、とても! 何て濃厚な甘さなんだろう……! それに……干してあるのに……食感がこんなにも瑞々しいなんて……!」
 ブラッキーは盛んに口を上下に動かしながら満面の笑顔で答えた。言い終える頃には口の中を空にしてしまったらしく、齧りかけの木の実を全て口の中へ放り込んで咀嚼し始めるのだった。
「気に入ってくれたようで嬉しいよ! ……ささ! 沢山あるからどんどん食べちゃって!」
 自らが勧めた食べ物を気に入って貰えるのは手放しで嬉しいことだった。干した木の実を夢中で頬張るブラッキーの姿を見てすっかり気を良くしたベロリンガは、相手が自由に取って食べられるようにブラッキーの近くまで壺を押し寄せてやる。
「良いのですか!? それではお言葉に甘えて!」
 ベロリンガの言葉にブラッキーは目を輝かせる。
 何かと控え目な態度が目立つブラッキーであったが、今回ばかりは遠慮する気はないらしい。壺が目の前に到着するや否や彼は二切れ、三切れをまとめて取り出し、ベロリンガに手渡されていた最初の一切れをまだ完全に味わい尽くしていないにもかかわらず、欲張りにもそれら全てを一挙に口の中へと押し込んでムシャムシャやり始めるのだった。
「あははっ! いい食べっぷりだねぇ! 見ているオイラが気持ち良くなっちゃうくらいだよ!」
 貪り食うも同然の勢いで食べ始めたブラッキーにベロリンガは称賛の言葉を送る。
 今日一日、水を除いて何も口にしないで森の中を彷徨い歩き続けて来た彼のことである。こんなにも美味しい食べ物に出会ってしまって理性を保っていられる筈がなかったのだった。
 このまま放っておけば数分足らずで壷の中のご馳走を平らげてしまうのではなかろうか。そんな旺盛な食欲を見せるブラッキーであったが、間もなくしてご馳走を口へと運んでいた前足の動きがピタリと止まる。ケトルの注ぎ口から湯気と共に立ち上ってきた芳醇な香りが彼の鼻をくすぐったのだった。
「んっ……!」
 すっかり忘れてしまっていた。これ以上も蒸らせば旨味に渋味が勝ってしまう−−。
 彼は大慌てで口の中の木の実を噛み砕き、ゴクリと大きく喉を鳴らして口の中にあったもの全てを一気に飲み込んだ。
「……失礼、危うくお茶の味を台無しにしてしまうところでした。さぁ、出来ましたよ!」
 ブラッキーは声を弾ませてケトルを取り上げ、その注ぎ口から濾れ立てのお茶をティーカップへ静かに注ぎ始める。二つのティーカップの内側が一切の濁りのない琥珀色に輝く液体で満たされる頃には洞窟の中も豊かな茶葉の香りでいっぱいに満たされるのだった。
 お茶を注ぎ終えたブラッキーはケトルを床の上に下ろし、ティーカップの近くに置いてあった真っ白い小さな立方体が詰まったガラスの小瓶の蓋を開ける。
「角砂糖はいかがなさいますか?」
 ブラッキーは小瓶の中に入っていたシュガートングで角砂糖を一つ摘み出して見せながら尋ねる。
 三つ、甘いものには目がないベロリンガは反射的にそう答え掛けるも、既に口の中が甘味で満たされていることに気が付き、すんでのところで思い止まる。
「えーっと、うん。お茶菓子の甘さがまだ口の中に残っているから……オイラは要らないや」
 そんなベロリンガの返答を耳にしたブラッキーはクスリと笑って見せる。
「僕も同感です。それでは何も入れないで楽しみましょう」
 ブラッキーはソーサーに乗ったティーカップの一つをベロリンガに差し出し、もう一方のティーカップを持ち上げる。同じくベロリンガもソーサーが目の前に置かれるのと同時にカップを手に取る。
「君との出会いに乾杯だね」
 そう言ってベロリンガはカップを自身の顔の高さに掲げて見せる。
「ええ、自分こそ。……それでは乾杯!」
 ブラッキーが乾杯の音頭をとる同時に二匹は軽くカップを合わせ、それからほぼ同時にカップを口元に運ぶ。ブラッキーは口に当てたカップを軽く傾けることにより、一方のベロリンガはその大きな口でカップの縁の半分近くを覆ってズズッと豪快に音を立てて啜り取ることにより、めいめいがカップの中の液体を口に含む。
 その量に違いはあれど、最初の一口を飲み終えた二匹は口元からカップを離し、ブラッキーに関してはソーサーの上にカップを戻す。ベロリンガが口からカップを離す際、彼の唇と飲み口との間で唾液が無数の糸を引いたのは幸いにもブラッキーの目に留まることはなかった。
「全体的に角のない柔らかな口当たりだね。コク、旨味、渋味のバランスも文句を付けようがないや。……驚いた、こりゃ抜群のお茶だよ」
 ベロリンガはカップの水面を見つめつつ批評を述べる。今まで生きて来てお茶を嗜む機会など数える程しかなかったものの、舐めた相手を舌触りと味だけで記憶できる程の非常に繊細で優れた味覚が備わった舌を持つ彼のことである。比較する対象が少ないながらも、このお茶が逸品の中の逸品であることに気が付くのは容易な事であった。
「本当ですか!? 良かった! そう言ってもらえて嬉しい限りです!」
 お茶の味を誉められたブラッキーは喜びを隠さずにはいられなかった。
「こんないいお茶どこで手に入れたんだい? 滅多に手に入るような代物じゃないよね、これ?」
 ベロリンガは手にしたカップを前後に振って中の液体を回しながら尋ねる。
「察しが良いですね。そうです、結構な貴重品なんですよ。……ここからずっと西へ行った所にある港町に舶来の茶葉を専門に販売している店がありましてね。そこに数ヶ月に一度のペースで入荷するかしないかの非常に希少な茶葉なんです」
「なるほどね。聞いて納得だよ」
 相槌を打ちつつベロリンガはもう片方の手にカップを持ち替えて口に運び、角度を付けて内側に残る液体の全てを流し込んだ。
「……ふぅ、美味しかった」
 中身を飲み干したベロリンガは静かに口からカップを離す。前回の反省からカップの縁を軽く口に当てたのが功を奏したのか、今度は唇と縁の間に唾液の橋を渡さずに済んだ。
「お代わりをお注ぎしましょう。カップをこちらへ」
 ブラッキーは透かさずお代わりを勧める。
「いいのかい? それじゃ、お願いするよ」
 もう片方の手で丸い頭を掻きつつ、ベロリンガは空になったカップをブラッキーに差し出す。既にケトルを持って待ち構えていたブラッキーは、カップが目の前に来ると同時にケトルを傾け、琥珀色の液体を静かに注いで行くのだった。
「……お待たせしました」
 水面がカップの八分目に達したところでブラッキーはケトルを水平に戻す。
「ありがと!」
 礼を言うと同時にベロリンガはブラッキーに向けて伸ばしていた腕を引き戻し、そのまま盛んに湯気立つカップを自身の口に運ぶ。
 ベロリンガが思いも寄らぬ行動に出たのは次の瞬間のことだった。彼はカップの縁を下唇に押し当てると同時に天井を見上げ、カップの中身をあおりに掛かったのである。
「ああっ! 待って下さい! そんな飲み方をされては舌を火傷してしまいますよ!?」
 持ち上げていたケトルをほとんど投げ出すような形で床の上に置き、慌てて止めに入ったブラッキーであったが、既にベロリンガはカップの中身の全てを口の中に流し込んでしまった後だった。
 慌てふためくブラッキーをよそに、ベロリンガは再び空になってしまったカップを悠々とソーサーの上に戻し、両頬を器用に動かして、ロールした状態で仕舞ってある巨大な舌の隅々まで液体を行き渡らせる。じっくりと十秒近く掛けて舌全体で堪能した後、彼は何事もなかったようにゴクリと喉を鳴らして飲み下してしまうのだった。
「ああ、美味しい! 口の中が幸せだよ!」
 ベロリンガはうっとりした様子で漏らす。
「あの……大丈夫でしたか?」
「別に平気だけど? こんなの熱い内に入らないよ」
 ブラッキーは不安そうに尋ねるも、当のベロリンガはケロリとした様子で返す。ポカンとするばかりのブラッキーに対し、彼はこう続ける。
「オイラの舌はベトベトの唾液で守られているからね、熱い飲み物が入って来たところで、すぐにはオイラの舌に直接は触れないんだ。で、口の中で転がしている間に丁度いい具合の温度になって楽しめるってワケ。その証拠に……」
「……ひっ!」
 小さな洞窟に今日で二回目となるブラッキーの短い悲鳴が響き、彼は尻餅をついてしまう。無理もない話だった。いきなり彼の鼻先から数センチの距離までベロリンガの舌先が伸びて来たのである。
「ほら、見て! どこも火傷してないでしょ!」
 そう言ってベロリンガは伸ばした舌を様々な方向にくねらせて見せる。
 ブラッキーの眼前で全身が水飴状の粘液に分厚く覆われた桃色の大蛇が踊り狂う。およそ生理的に受け付けないその光景に、彼は硬直した愛想笑いを浮かべ、その場で縮こまってしまう他なかった。
「えっ……ええ! おっしゃる通りです! その、よく分かりましたので……もう仕舞って頂いて結構ですよ?」
 あまりに気味の悪いその光景から一刻も早く逃れたいブラッキーは、普段より一オクターブ高い声で懇願するように言った。
「そう? 分かってくれて良かった! あははっ!」
 そんなブラッキーの言葉をそっくりそのまま額面通りに受け取ったベロリンガは、満足げに笑いつつ、伸ばした舌を元通り口の中へと仕舞うのだった。
 ああ、びっくりした! あんなので舐められた日にはどうなってしまうことやら! ブラッキーはホッと胸をなでおろすのだった。
「それにしても美味しいお茶だねぇ! もう一杯貰うよ!」
 そう言うが早いか、ベロリンガは片方の腕を伸ばしてお茶の入ったケトルをひったくる。
「ああ、手酌はいけません! 僕に注がせて下さい!」
「いいよ、いいよ! 君に注がせてばかりじゃ申し訳ないしさ!」
 慌ててケトルに取り付こうとするブラッキーを制しつつ、ベロリンガは大きくケトルを傾け、もう片方の手で持ち上げてあったカップに並々と琥珀色の液体を注ぐ。そして、持つ手を少しでも動かそうものなら瞬く間にこぼれ落ちてしまいそうなカップの中身を口から迎えに行き、表面張力で持ちこたえている分を啜り取った後、二杯目でそうしたのと同様に宙を仰ぎ、残るカップの中身の全てを飲み干してしまう。
「ぶはぁーっ! 本当に最高だよ、これ!」
 ベロリンガは飲み終えるなり手にしていたケトルをドカリと地面の上に置き、濃い湯気を吐き吐き、ご機嫌な口調で感想を述べるのだった。
「そう言って頂けるのは嬉しいのですが……もっとゆっくりと一杯ずつ楽しまれてはいかがです? 本来、お茶とはそういうものですので……」
「あはは、ごめんよ。その、あんまり美味しいものだからついつい……」
 ブラッキーが笑いつつも少し不満そうに言うと、ベロリンガは短い手で頭を掻きながら申し訳なさそうに返す。しばらくの沈黙があった後、彼は再び空になったカップに視線を落とし、少し残念そうな声でこう続ける。
「うーん、でもねぇ。その一杯がオイラには少なすぎるんだ。君がもう一回り……いや、二回り大きい容器を持っていたら話は別だったんだけどね。ええと、そう言うと何があるかな……」
 言葉の終わりでベロリンガは視線を宙に泳がせ始めるが、それに対するブラッキーの応答は早かった。
「分かりました。そういう事でしたら、今度あなたとお茶する時はカップの代わりにジョッキをお持ちしましょう」
 途端、ベロリンガは表情を明るくしてブラッキーの方を見やり、
「それだ! オイラにピッタリのサイズだよ!」
 退化に退化を重ねてすっかり小さくなってしまった親指の爪で相手を指差しつつ、興奮気味に言うのだった。
「決まりですね!」
 ブラッキーは顔いっぱいに笑みを浮かべて声を弾ませる。彼にとある考えが浮かんだのはその次の瞬間のことだった。
「……そうだ! こうしましょう!」
「えっ、何をどうするんだい?」
 脈絡のないセリフにベロリンガが面食らった様子で返すと、ブラッキーは相手の丸い顔を真っ直ぐに見つめ、こんな事を持ち掛けるのだった。
「明日に僕の妻の捜索を手伝って頂いた暁には、これと同じお茶を差し上げましょう」
「えっ、これと同じお茶って……確か、数か月に一度しか手に入らないって話だったよね?」
 ベロリンガは思わずカップの底に視線を落とした。すると、ブラッキーはそっとベロリンガの耳元まで近付き、小声でこんな事を吹き込むのだった。
「……ここだけの話、それが来週に控えているので買いに来ないかとの便りが店主から届いたばかりでして。不要でしたら他のお礼を考えさせて頂きますが……どうされます?」
「……わぉ、そんなの断る理由が見つかんないや。是非お願いするよ」
 他に誰が聞いている訳でもなかったが、ベロリンガも内緒話をする時の声で返す。
「承りました。それと……さっきの話ではありませんが、ティーカップもお付けしましょう。知り合いに腕利きの陶芸師がいましてね。言えば何でも作ってくれるんです。ジョッキ大のティーカップを作るくらい朝飯前でしょう」
「おおっ、嬉しいね。じゃあ、それも頼むよ!」
「分かりました!」
 ブラッキーは笑顔で頷いて見せた。
「……よし、この二点ですね。忘れないようにします」
 ブラッキーは自身のナップサックからメモと筆記具を取り出し、几帳面にも今のやり取りの中で上がった二品目について書きとめに掛かるのだった。
 自分にピッタリの大きさのカップで、この最高のお茶を心行くまで楽しめる――。野生で暮らすポケモンにとっては目も眩むような贅沢を前に心を躍らせるベロリンガであったが、同時に彼は物足りなさも感じてしまうのだった。
「そうだ、後もう一つ。いいかな?」
 おずおずとした口調でベロリンガが言うと、ブラッキーはメモを取る前足の動きをピタリと止めて視線を上向ける
「……うん? あぁ、構いませんよ。何なりとおっしゃって下さい。街で手に入らないものなど存在しませんからね」
 ブラッキーは自信満々に言い放った。そんな相手の反応に安心を覚えたベロリンガは一呼吸置いてからこんな事を切り出す。
「……あすこに固めて置いてあるのを見ての通り、オイラって食事のために使う道具にしても何にしても、使えさえすれば十分って思っちゃうクチのポケモンなんだ」
 ベロリンガは水瓶の脇に積み上がった古びた鍋や食器類の山に視線をやりつつ話す。いずれの元々の持ち主もとうの昔に彼にペロリと一呑みにされた後であるのは言うまでもないことだった。
 そこまでを言い終えたベロリンガは視線を戻し、少しうつむき加減になってこう続ける。
「けど……君のピカピカ光るティーセットを見ていたら気が変わっちゃってね。折角お茶を楽しむんなら、オイラも同じものを揃えたいなぁ、なんて思っちゃったりして……。その、つまり……」
「ははぁ、なるほど。ティーセット一式が欲しくなってしまわれたのですね?」
 言葉に窮するベロリンガに代わってブラッキーが笑いながら言うと、彼は恥ずかしそうな表情を浮かべて無言で小さく頷く。
「ふーむ、それもあなたの体の大きさに見合ったものでないといけませんね。はて、街の市場に出回っているかどうか……」
 ブラッキーは難しい表情を浮かべて考え込んでしまう。気まずさを覚えたベロリンガは慌てて発言を撤回しに掛かる。
「あはは、流石にワガママが過ぎたね。ごめんよ、今のは聞かなかったことに……」
 が、言い終える直前になってブラッキーの表情がパッと明らむ。
「分かりました! 何とか手配して見せましょう!」
「……って、ええっ!? いいのかい!?」
 仰天するベロリンガに向かってブラッキーは大きく頷いて見せる。
「言ったでしょう。街で手に入らないものなど存在しない、と。出回っていないのならオーダーメイドで作って貰うまでです。少し時間は掛かるでしょうが……きっと満足の行く品を用意できる筈です!」
「ああ、何てことだろう! まさかオーケーして貰えるなんて! うーん、どうしようかなぁ……」
 今度はベロリンガが考え込む番だった。
 あまりに魅力的な報酬を目の前にベロリンガの心に迷いが生じる。これさえあれば、夕方に洞窟に戻ってから就寝するまでの何をするでもない時間が最高に心安らぐ時間へと姿を変える。このまま彼のことは食べないでおいた方が良いのかもしれない。
 だが――現実に目を向けねばならない。ベロリンガは自身の甘い考えをグシャリと踏み潰す。蒸すような暑さが続く中では想像することすら困難であるが、この樹海にも数か月としない内に冬がやって来る。種族的にはニョロトノやガマゲロゲなどといったポケモンに近しい彼もまた、冬の寒さが続く間中はその大半を洞窟に籠りっきりで過ごさねばならないことを運命づけられているため、冬に備えて食べられるものは手当たり次第にでも食べて丸々と肥え太っておかねば文字通り一巻の終わりなのである。
 そう言うと、秋の実りを採集して洞窟の中に貯蔵しておく方法が残っているではないかとの横槍が入りそうなものだが、訳あって今現在の彼はその方法をほぼ完全に封じられているも同然の状態だった。ここで彼を食べないでおくことは次の春までの生存確率を下げることに繋がりかねない。今の彼に選択の余地などないのである。
 あいつさえいなければ、あいつさえいなくなれば、オイラはこんなにも世知辛いポケモンでいる必要はなくなるというのに――。ベロリンガは暗澹たる思いを募らせる。出会った当初から捕食する目的で襲い掛かるのが普通であるため、今まで過ごして来てそのような状況が生まれたのは皆無であったが、彼は自身の餌食になり得る者でも、それが親しみを覚える相手ならば、友達として付き合うことを選択肢の一つとして排除しない程度には理性を持ち合わせたポケモンだった。事実、目の前にいる相手がその審査基準を順調にクリアしつつあっただけに、暗い気持ちは一層に募った。
「何を迷っておられるのです! 明日一日、僕の都合に付き合って頂くのですから、このくらいのお礼は受けて当然ですよ! 遠慮しないで下さい」
「……ん、言われてみればそうだね。それじゃ、よろしく頼むよ!」
 ブラッキーの背中を押す言葉にベロリンガは精一杯の明るい笑顔で応じる。
 そういう迷いじゃないんだけどね。思わず口から出てしまいそうになった一言をベロリンガはゴクリと飲み下す。やっぱり彼には今晩のメインディッシュになって貰おう。ベロリンガは固く決意した。
 そうと決まれば明日は自分一匹でご馳走を探し歩くことになる訳だから、今の内に彼の妻に関する情報は彼の口から聞き出せるだけ聞き出しておかねばなるまい。あいつとの争奪戦になるのは避けられない訳だから、なるべく有力な情報を引き出さねば。ベロリンガは緩んでいた表情を引き締める。
「おっと、これ以上は君のお嫁さんが無事に見つかってからにしておかないと。捕らぬジグザグマの何とやらとはよく言ったものだよ」
「ああ、そうでした。浮かれている場合じゃないんだ。明日の事を真剣に考えないと……。ううっ、何をどうすれば……」
 ベロリンガの一言がブラッキーを現実に引き戻す。やはり不安でならないのか、彼はたちまちに落ち着かない様子を見せ始める。
「それじゃあ、オイラから一つお願いさせて貰うね」
 待っていたとばかりにベロリンガが声を上げる。
「何です?」
「君のお嫁さんについて色々と教えて欲しいんだ。まだ細かいことを何一つ聞いていなかったものだからさ」
 ベロリンガの言葉にブラッキーはハッと気付かされる。
「……そうか、まだ詳しいことは一切お話していないのでしたっけ。そうですね、何からお話ししましょう?」
「なるべくシンプルなのが先だね。君のお嫁さんは何てポケモン? カビゴンとか?」
 ブラッキーは吹き出してしまう。
「ご冗談を。押し潰されてしまいますよ。妻も僕と同じくイーブイが光の力で進化したポケモンです」
「と言うと……君と同じブラッキーかい?」
 干した木の実が詰まった壺に手を伸ばしつつ尋ねるベロリンガに対し、ブラッキーは首を左右に振って見せる。
「いえ、違います。むしろ僕と対になるポケモンです。月の光を浴びて進化した僕はげっこうポケモンのブラッキー、太陽の光を浴びて進化した彼女は……」
 その先の言葉にベロリンガは最大限の注意を払う。それが彼の平常心を根底から揺さぶる一言であるとも知らずに。
「たいようポケモンのエーフィです」
 ベロリンガが何もかもを悟った瞬間だった。昨日に食した雌のエーフィ――。彼女こそ彼の妻だったのだ。
「ああっ……!」
 彼の口から間の抜けた声が漏れ、痙攣するかの如く震えた手からは食べ掛けの干した木の実が滑り落ちる。
 そんなベロリンガの様子をブラッキーが見過ごす筈もなかった。彼は血相を変え、ほとんど躍り掛かるようにしてベロリンガに縋り付く。
「どうしたんです!? 何か、何か思い当たる事でもあったんですか!?」
 顔面から数センチの距離でブラッキーが物凄い形相でまくし立てる。あまりの気迫に圧倒されたベロリンガは上体を大きく後ろに反らさずにはいられなかった。
 まずい、動揺が表に出てしまった。このままでは自分が彼の妻をどうしたのか気付かれてしまう――。ベロリンガの背中に冷たい感覚が走る。そうなれば待ち受けるのは彼との真っ向勝負だった。片や進化を経て強大な力を手にした彼、片やベロベルトに進化する方法が全く分からず未だに今のままの姿でいる自分――。戦わずとも勝負の行方、もとい生死の行方は火の目を見るより明らかだった。
 ここは何としてでも言い繕って見せる。そう心に決めてベロリンガは口を開く。
「そっ、そのポケモンならオイラ見たよ! ちょうどオイラの目の前を通り掛かったんだ!」
 辟易してしまう程の裏返った声であったものの、ベロリンガは何とかそこまでを言い終えた。猛スピードで鼓動を刻む心臓の音が彼の体中に響き渡る。
「いつ!?」
 それからブラッキーが次の質問をぶつけるまでにコンマ一秒と掛からなかった。縋り付くブラッキーの前足に力がこもり、分厚く贅肉が巻いたベロリンガの柔らかな太鼓腹にブニュリと食い込む。
「きっ、昨日の昼過ぎ……」
「どこで!?」
 夕方に近い時間帯であったことも付け加えようとしたベロリンガであったが、殆ど怒号に近いブラッキーの声に遮られる。前足には一層に力が入り、いよいよベロリンガは息苦しさを感じ始めてしまう。
「こっ、ここから一番近くの林道で……」
「そのエーフィの格好は!? 何か身に付けているものはありませんでしたか!?」
 質問を重ねるごとにボルテージを上げて行き、今やベロリンガの体にしがみ付いているも同然となったブラッキーが唾を散らしながら尋ねる。
 ポーチだ。ベロリンガは即座に思い出す。
「た……確かポーチを提げていたよ。ど、どんなのだったかと言うと……」
 実際に手に取って中身を平らげた代物だっただけに詳細に至るまでを知ってはいたが、不自然な印象を与えないため、遠目から見ても分かるような特徴だけ伝えることにした。
 二点、三点と述べて行く内に、ブラッキーはそれが自分の妻であることを確信したらしい。彼は顔いっぱいに戦慄の表情を浮かべ、口をパクパクさせながら小刻みに体を震わせ始めるのだった。
「彼女だ……間違いない。となると、彼女の身に何かあったのは昨日の昼過ぎ以降……。やはり……やはり彼女はこの森のどこかで消息を絶っている……」
 ブラッキーはうわごとを言うかの如く呟いた。
「ゆ、有力な情報を提供できたみたいでオイラ嬉しいよ。……と、ところでさ、君。気持ちは分からないでもないけど、そんなに密着されたらオイラ苦しいよ。ちょ……ちょっとオイラの体から離れて貰ってもいいかな……?」
 ベロリンガは苦悶の表情を浮かべながらブラッキーの前足の付け根近くに両腕を回す。
「……はっ! ああ! 失礼しました!」
 ベロリンガの言葉と体を触れられる感覚で我に返ったブラッキーは大慌てで前足を床に下ろして引き下がる。
「……ふぅ!」
 息苦しさから解放されたベロリンガの口から特大の溜め息が漏れる。それは同時に、ブラッキーの追及をかわし切ったことに対する安堵の溜め息でもあった。
「ああ……信じられない。旅慣れている筈の彼女がどうして……」
 ブラッキーは頭を抱え込む。
「君、もう少し前向きに考えようよ。これで捜索範囲が決まったんだから、大きく一歩前進じゃないか」
「……そうか。これで最後に目撃された場所から僕の自宅までの間だけ捜しさえすれば済む話になった……」
 ベロリンガの励ましの言葉にブラッキーの顔が上向く。
「そういうこと! それと……オイラ一つ疑問なんだけどね」
 そう前置きをしてベロリンガは腕組みして見せる。
「そもそも君のお嫁さんって本当に遭難しているのかい? 何か理由があって到着が遅れているだけの可能性もあるワケでしょ?」
「ありえません。今まで一度も約束の時間に遅れたためしがない彼女のことですよ?」
 ブラッキーは少し怒ったような口調で返す。
「そういうのを思い込みって言うんじゃないか。だいたい昨日の蒸し暑さだよ。あんな中をペースダウンせず歩き続けられる体力自慢がいるんなら是非ともお目に掛かりたいね。何度も休憩を重ねている内に予定に遅れているだけだと思うんだけどなぁ?」
 そう言ってベロリンガはわざとらしく首を傾げて見せたが、ブラッキーは腑に落ちないようだった。
「でも……それなら既に彼女は見つかっている筈なんです。今日一日、彼女が通る筈の林道をずっと辿ってここまで来たのですから」
 そりゃそうだ。オイラが食べちゃったんだもの。ベロリンガは胸の内で呟く。さて、ここはどう返すべきか。しばしの思案の後でベロリンガは口を開く。
「それで全部かい? 林道脇にある休憩に使えそうな洞窟は全てチェック済みだよね?」
「え……あっ、それは……」
 ブラッキーはしどろもどろになり始める。
「それに、涼を求めて湖を通るルートに変更した可能性だって大いにあるワケだけど……ちゃんと歩き回って調べた?」
 ベロリンガが畳み掛けるとブラッキーは肩をすくめて小さくなってしまう。そして、
「いえ、調べていません……」
 そう一言、消え入りそうな声で呟くのだった。
「ほらね。これ絶対に入れ替わりになっているパターンだよ。行方不明っていうのは君の早とちりなんじゃないかなぁ?」
「入れ替わり……僕の早とちり……」
 ブラッキーは下を見つめながらベロリンガの言葉を反芻する。
「……何だろう、言われてみればそんな気がしてきました。少し冷静さを欠いていたかもしれません」
 何度か繰り返した後、ブラッキーは顔を上げてボソリと呟く。少し気持ちが上向いたのか、その表情は今までより幾分か安らいで見えた。
「色々と整理できて来たね。よし、これでまた一つ決まり! 明日の捜索は君の家から始めよう!」
「ええ! 異論はありません!」
 ベロリンガはそう締め括った。良い具合にオチを付けることが出来た! 彼は心の中でガッツポーズを決める。
 次だ。ベロリンガは気持ちを切り替える。彼の口から聞き出すべきことが何もないと分かった以上、彼を餌食にするべく本格的に段取りして行かねば。月並みだが寝込みを襲うのが一番だろう。そう思ったベロリンガは洞窟の入り口にちらと目をやってから口を開く。
「さて……夜も更けて来たことだし、適当に飲み食いしたら寝る準備をしてくれて構わないよ。片付けは明日でいいさ」
「すみませんね。これを飲んだら先に休ませて貰います。歩き通しで疲れてしまったもので……」
 ブラッキーは少しぼんやりとした面持ちでカップの中の液体を啜る。一口分を飲み終えて大きく息を吐き出した直後、彼は毛を逆立ててブルリと小さく身震いする。
「……割と冷え込むんですね。こんなの昼の暑さからは想像も付きませんでした」
 ブラッキーは何もない宙に目をやりながら感慨深げに呟く。
「はは、いつもなら寝苦しい夜になるんだけど、流石にこれだけ降るとね。……ちょっと火を大きくするよ」
 そう言ってベロリンガは木の枝の山から太い枝を何本か選り出し、燃え盛る炎の中へと放り込む。投げ入れられた衝撃で火勢が衰えたのも束の間、たちまちに燃え上がって今までの倍近い大きさの焚き火が出来上がった。
「すみませんね。助かります」
 ブラッキーは一歩前進して焚き火のすぐ近くで体を温め始める。
 揺らめくオレンジ色の炎をトロンとした眼差しで眺めつつ、時折思い出したかのようにカップを口に運ぶ。そんなブラッキーの背中を特に何をするでもなく眺めていたベロリンガであるが、やがて彼はとある異変に気が付く。焚き火のすぐ傍にいるにもかかわらず、ブラッキーの体が小刻みに揺れ始めたのだった。
「あれ? 君、震えているみたいだけど……まだ寒かったりする? もう少し火を大きくしようか?」
 途端、ブラッキーの体がビクリと大きく縦に揺れる。
「あ……いえ、そういうワケでは。はは、すみません。貧乏ゆすりは良くありませんね!」
 背後を振り向いたブラッキーがやけに明るい声で返す。その顔には取って貼り付けたような笑顔が浮かんでいた。
 それから何事もなかったかのように焚き火へと視線を戻したブラッキーであったが、ものの数秒と持たずに再び彼の体が揺れ始める。不審に思ったベロリンガは更にこう尋ねる。
「もしかしてオシッコかい? それなら遠慮しなくたっていいんだよ? 入口近くの壁にでも引っ掛けて来てくれたらいいさ」
 そこでブラッキーはカップを置いて慌ててベロリンガの方を向き直る。
「いえ! その……大丈夫ですので! どうかお気になさらず!」
 笑顔で否定するブラッキーであったが、体は正直なもので、言っている最中からプルプルと後ろ脚が小刻みに震えていることからして大丈夫ではなさそうだった。そして、次の瞬間、
ブーッ!
 勢い良くガスが漏れ出る音が洞窟に響く。その発生源がブラッキーの尻尾の付け根辺りであることは言うまでもなかった。
「あ……」
 間の抜けた声を漏らすと同時に大慌てで前足を股にあてがうも、既に事は起こってしまった後だった。事情を察したベロリンガが笑い声を上げる。
「ああ、なるほど! ウンチしたくなっちゃったんだね!」
 途端、恥ずかしい気持ちを爆発させたブラッキーは顔を真っ赤にして下を向いてしまう。
「……あ、あの。すみません。トイレとか……ございませんよね……?」
「いや、あるよ! 安心して!」
 下を向いたまま今にも消えそうな声で尋ねて来たブラッキーにベロリンガは笑顔で返し、すっくと立ち上がる。
 助かった! ブラッキーの表情がパッと明るむ。が、そこからの展開は彼が思い描いていたそれとは少し異なっていた。
「いま探すよ! ちょっと待ってて!」
 ベロリンガはブラッキーを手で制しながら洞窟の壁際に向けて歩き始める。
「は……? あっ、はい」
 案内してくれるのではないのか。ブラッキーは上げ掛けていた腰を戸惑いつつ下ろす。それに探すというのは何の話なのだろう? 用を足すのに持って行くべき物など特にない筈なのだが……。ブラッキーの胸に様々な疑問が浮かぶ。
「えーっと、確か最後に使った後この中に戻した気が……」
 そんなことを独り言ちつつ、食器の山とはまた別の、ガラクタ同然の雑多な品々が積まれて出来上がった山の正面に行き着いたベロリンガは、その中腹に両腕を突っ込んで山をかき分けながら目当ての品を捜し始める。
 分かった、紙だ。ブラッキーの頭に一つの考えが浮かぶ。恐らくはトイレに紙を備え付けていないのだ。野生で暮らす彼は基本的に屋外で済ませるだろうから、備え付けてまで使わないのだろう。そうだ、そうに違いない――。
「……あった! これだ!」
 洞窟の最高峰と格闘し続けていたベロリンガの口から弾んだ声が上がったのは、彼がそこまでを考えた直後のことだった。
「へっ……?」
 一方のブラッキーの口からは当惑の声が漏れる。それもその筈、ベロリンガが山から引っ張り出したのは紙などではなく、ひしゃげ掛かった蓋付きのバケツだったのである。
 まさか――。ブラッキーは全身から急速に血の気が引いて行くのを感じた。意気揚々と戻って来たベロリンガがそれをポンとブラッキーの目の前に置く。
「この中に済ませて来て! くれぐれもひっくり返さないよう気を付けてね!」
「……ごめんなさい。やっぱり外で済ませて来ます」
 すっかり青い顔になったブラッキーは逃げるような足取りで洞窟の入り口に向かって駆けて行った。
「……あっ、待って! まだ雷が鳴り止んでいないから外は危険だよ!」
 即座に背後から呼び止める声が突き刺さるもブラッキーは無視を決め込む。冗談じゃない。これなら外で済ませた方がマシだ。雨に打たれるのは仕方ないが、少し外に出たくらいで雷に打たれたりするものか――。洞窟の入り口から数メートルの地点に落雷があったのは、まさに彼が入り口まで残り数歩のところまで迫った瞬間だった。
「ギャーッ!」
 青白い閃光が視界を覆うのと同時に、耳をつんざく轟音が彼の体を後ろになぎ倒す。
「ああ、もう! 言わんこっちゃない!」
 絶叫を耳にしたベロリンガが舌打ちして立ち上がる。そのままバケツを手に大急ぎで洞窟の入口へと駆けて行くのだった。
「……君、大丈夫だったかい? まさか丸焼きになってないだろうね?」
 数秒後、仰向けになって倒れるブラッキーの元へ辿り着いたベロリンガが相手の体を揺すりつつ尋ねる。
「あ、ああ……」
 落雷のショックで肝を潰してしまったブラッキーはガクガクと全身を震わせながら声にならない声を漏らすばかりだったが、少なくとも生きているのは確かなようだった。
「良かった。とりあえずは無事そうだね」
 ご馳走が消し炭にならずに済んで良かった! ベロリンガはホッと胸をなで下ろす。
「起き上がれるかい? 良かったら手を貸すけど?」
 言いながらベロリンガはブラッキーの背中に手を回す。
「ああ、すみません。大丈夫です。一匹で起き上がれますので……」
 そこでようやく我に返ったブラッキーは上体を起こし、若干おぼつかない足取りながらも自力で立ち上がる。
 見上げると外は相変わらずの激しい雷雨だった。ほとんど数秒に一度の間隔で稲妻が闇夜を切り裂き、激しく雨が地面を叩く音に混じって雷鳴が轟き続ける。ほんの少しでも命が惜しければ一歩でも外に踏み出すべきでない空模様だった。
「気が変わったかい? まぁ……君がウンチ踏ん張っている姿勢で黒焦げになっても構わないって言うんなら、オイラこれ以上は止めないでおくよ」
「うぅ……」
 ベロリンガが腰に両手を当てながら言うと、ブラッキーは土埃にまみれた背中を丸めて呻きを漏らす。
 既に我慢も限界に達していた。これ以上も意地を張り続ければ最悪の展開は避けられない――。進退きわまったブラッキーはそこで音を上げる。
「わ……分かりました。お借りします……」
「うん、それが良いよ! それじゃ、ごゆっくり!」
 ベロリンガはバケツの蓋を開けて脇に置くと洞窟の奥へ戻って行った。ぽっかりと大口を開けたバケツに向き合ったブラッキーはゴクリと固唾を飲み込む。
「……あ、一つ言い忘れてた」
「こっ、今度は何です?」
 ピタリと足を止めたベロリンガが顔を向けて来るのと同時にブラッキーはバケツから飛び退く。
「悪いけど終わったら持って戻って来てくれる?」
「え……」
 ブラッキーは固まってしまう。用が済んだら一目散に逃げ戻る気でいた彼にとってあまりに衝撃的すぎる一言だった。
「吹き込んで来る風で倒れちゃったら後が面倒だからね。というワケでよろしく頼むよ!」
「あ、ちょっと待って……」
 手を振って去り行くベロリンガの背中を呼び止めるも、雨の音にかき消されてしまったのか、そのまま彼の姿はカーブの向こう側へと隠れてしまうのだった。
「ああ、どうしてこんな目に……」
 もう少し後のために取っておいた方が良い恨み言を惜しげもなく口にしつつ、ブラッキーは恥ずかしさで胸が張り裂けそうになるのを堪えながらバケツを跨ぐのだった。
17/12/17 23:26更新 / こまいぬ
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